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2004/08/29

大島正嗣氏のこと 「華麗なるマリンバ」の巻

Gary Burtonの話がでたので、それに関連して大島正嗣氏のことを書いてみたいが、まずはその前に去る8月15日に行ってきたコンサートのことからはじめよう。

この日は今年で11回目になるという、「華麗なるマリンバの響き」を聴きに神戸市産業振興センターまで家内と娘を連れて行ってきた。
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このコンサートは、かつて僕が学生時代にヴァイブを習ったことのある佐藤梨栄先生と日本木琴協会阪神支部が主催する、先生と会員さんおよびその仲間の方々の演奏会で、半分はアマチュアの演奏会ということになるのだが、かなり高いレベルの演奏会になっている。ここ数年は家内と一緒に毎回来ている、といっても先生から2名分の招待状が届くので行かざるを得ない、いえ、もちろん喜んで聴きに行っております。

コンサートはほとんどマリンバのみ(一部ピアノ伴奏)なので色んな面で大変だろう。なんといってもマリンバという楽器はもともと馬鹿でかいのに、それを6台も持ち込んでいるのでそれだけでも大変だと思う。出演者のみなさんは素晴らしいテクニックもおありなのだが、演奏には(どの楽器もそうだろうが)特に打楽器系は体力もかなり必要ではなかろうか。

メロディー楽器とはいっても打楽器系のマリンバばかりでの演奏となると、おそらく単調に陥る危険性もあるので、その辺りの工夫もなかなかご苦労があるだろう。もともと他の楽器に比べてレパートリーが少ないから、他の楽器のための曲や有名な曲の編曲が数曲は入ってくるが、有名な曲ほどマリンバの特色を生かすのが難しくなるのではなかろうか。

今回はかなり有名な曲が多く取り上げられていたが、多少の難はありながらもそれぞれに楽しく聴けた。最近ちょっとブームの「惑星/ホルスト」から「木星」を会員の方々がマリンバ6台で演奏されたが、ここまで仕上げるのは並大抵ではなかったろうと苦労がしのばれた。ただえらそうなことを言えば、苦労がしのばれる辺りが、プロとの差かもしれないが。

その辺りはやはり佐藤先生や友情出演された広沢園子さんなどとは歴然の差が感じられる。ご子息の文俊氏も例年通り出演されているが、テクニックは素晴らしいものの、やはり音楽的にはまだまだ先生にはかなわないな、というのが実感だった。

残念だったのは、二部の最初にバッハのトッカータとフーガニ短調という超有名-超難曲を先生を含む4名で演奏されたときに、会場内で子供が泣き出したことだった。こういう場合は親御さんがすぐに場外へ連れてでるのがマナーだと思うのだが、母親が「シー、静かに」という声まで聞こえて演奏をかなり損なっていたことだ。この親子は結局終わりまで場内に留まっていたために何度も泣き声が邪魔して曲が満足に聴けなかった。コンサートの後、先生も「にらんでやった」とおっしゃっていて、かなり気分を害されていたようだ。

この曲は演奏者にとっては相当な緊張が必要な曲だろうと思う。普通ならあのような状況ではミスが出ても仕方が無いような状況だったが、そんなミスをされなかったのはやはりプロの力だろう。

今回、佐藤先生はソロで「レインダンス」というマリンバの曲を演奏された。技巧をひけらかすような派手な曲ではないが、ひとつずつの音が明瞭で静かに流れるメロディーは素晴らしかった。また広澤園子さんのソロは「妖精の踊り」という曲だったが、素晴らしいテクニックに裏付けられた音楽性の高さはプロの技術を再認識するに十分なものだった。

毎回、思うのだが、やはり佐藤先生は華がある、というか舞台に出られたときの華やかさ、使い古された陳腐な表現でいえばオーラを発散されていると感じた。

僕はあまり人付き合いのよい方ではないので、世間とのつながりというとどうしても会社が大半になってしまうのだが、佐藤先生のコンサートは普通のコンサートとは違った、かつての恩師のコンサートということで僕にとっても特別なものになっており、毎回招待状を贈ってくださる先生にはとても感謝している。

さて、何だか「××の巻」の癖がついてしまい記事がごちゃごちゃしているが、次回は佐藤先生の弟さんである大島正嗣氏について書こうと思う。

P.S. このコンサートの練習日記がありました。とても楽しいし、滅多に見ることのないことですので勝手にリンクしてしまいました(僕としてはリンクは常に自由という国際的なルール(?)に従っております)。

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2004/08/28

Jazz Rock Dusterの巻

この記事は、ゆうけいさんへのトラックバックです。

Jazz Rockとはなんぞや、というと、僕の世代からいえばゲーリーバートンが最初に思い浮かぶ。プログレというとロックの方面の言葉なのか僕にはピンとこないが、ジャズロックはちょうど僕がジャズを聞き始めた1971年ころまでの言葉だったと思う。

バートンがラリーコーイエル(当時は日本ではコリエルと呼んでいた)を加えて、それまでのスタンゲッツバンドから独立して始めた音楽がその走りではないのかな。このバンドの最初のアルバムがダスターで、1967年の吹き込みというからもう37年も前のことになる。今聴くとジャズとしか聞こえないかもしれないが、当時は相当衝撃的だったと思う。

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バンドメンバーはGary Burton(vib), Larry Coryell(g), Steve Swallow(b), Roy Haynes(ds)というから、Coryell以外はジャズ畑の人ばかり、というかRoy Haynesなんてチャーリーパーカーと共演したような人で、1998年にもチックコリア、バートンなどと共演したりという、すごい人だ。スワロウもここではまだウッドベースを弾いている。やはりこのバンドを特徴づけているのはコーイエルに他ならない。

このアルバムのライナーノーツがジャズロックという言葉の始まりを示唆していて興味深いので、抜粋して僕なりに訳してみよう。

Jazz, Rock and a lot of other things are currently colliding. A new music, for which there is as yet no name, is being born.
ジャズ、ロック、そしてその他の多くのものが現在衝突している。一つの新しい音楽、まだ名もないものが生まれつつある。

"I would prefer not to have our music claimed as jazz, or rock, or anything," Gary says. "It has a variety of elements in it, the most important being improvisation."
「僕たちの音楽を、ジャズとかロックとか呼ばれたくはないね」とゲーリーはいう。「たくさんの要素が含まれているが、一番大事なのはインプロビゼーションであることだ。」

The music resulting from this challenge is bridging a gap which has separated jazz and youth for a decade. The builder of this particular bridge is twenty-four. "I'm young, and I like being young. I feel like having long hair. I enjoy rock music and feel it has an extremely important role in the future of music.
この挑戦から生ずる音楽は、十年にわたってジャズと若者を隔てていたギャップを橋渡しする。この特別な橋の建設者は24歳だ。「僕は若い、そして若いことが好きだ。髪を伸ばしたいね。ロックは楽しいし、音楽の将来に非常に重要だと感じるよ。」

Ornette Coleman has defined jazz as having "something to do with the creative spontaneity of the times we are in."' DUSTER has everything to do with that.
オーネットコールマンはジャズの定義を「我々がいる時代の創造的な自発性と関係した何ものか」を持つ、としている。DUSTERの全てはそれに関係している。
MICHAEL ZWERIN The Village Voice, New York City

ゲッツバンドにいたころのバートンは、眼鏡をかけた銀行員などといわれたくらいな風貌だったが、このダスターの写真では眼鏡をとり髪も少し長くなっている。その後はロングヘアと髭(mustache)のバイビストとしてブレイクしたのも今は昔、現在ではもう大御所中の大御所になっているね。

ちなみに、DUSTERに入っている"General Mojo's Well Laid Plan"は僕が大学のバンドで最初に取り上げた曲の一つとして有名、かもねぇ? ははは\\(;^^;)//

さて僕は1971年に大学に入りジャズをはじめたのだが、この頃がジャズの転換点というか終焉ともいえるのかもしれない。コリアのReturn to Foreverやザヴィヌル-ショーターのWeather Reportが出たのがこの時代で、まさに激変の時代だったと思うし、その時に居合わせたのは幸運だった。どちらのバンドも初来日を聴きに行けたのだから。

クロスオーバーという言葉もフュージョンという言葉ももう少し後に出てくる言葉だが、ジャズロックという言葉は消えつつあったと思う。シカゴなんかはブラスロックといっていたようだが、そちらの分野はよく知らない。

次回はフュージョンについて知ってることなど書いてみたいが、最近はなかなか更新するヒマがないなぁ。

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2004/08/13

蝉丸(せみまる)

前回の雪渓のBlogはどうも一人ではまってしまっていたかな、といっても個人のBlogだから、それも当たり前なんですが、こういう思い入れのあることはどうしても自分だけの世界に入り込んで独りよがりに陥りやすいですね。

さて、お盆だが相変わらずの暑さだ。朝から我が家の庭にもセミがやってきて五月蝿(うるさ)く鳴いている。「五月蝿い」より「八月蝉い」とでも書いた方があたってると思うんだが。

庭にライラックの木があって、といってもひょろひょろとした小さな木だが、ライラックの汁はおいしいのかどうか、とにかくこの木ばかりにクマゼミが10匹ぐらい、がしゃがしゃと留まってシャワシャワと鳴く。この辺りにはなぜかクマゼミが多い。うるさいから追い払ってやろうと近づいても逃げないし、木をゆすっても2~3匹はしつこくへばりついている。

セミというのはもっと機敏かと思っていたがクマゼミはそうでもないらしい。この間、木を少々ゆすっても逃げないヤツがいるので、落ちていた小さな枝で追い払おうとしたら枝が当たって叩き落されたヤツがいたし、下手をすると手で捕まえられるくらいだ(実際、手で捕まえたこともある)。いちおう僕は神道夢想流杖道二段ということになっているが、それはもう十年以上前の話だし、こんな近くまでやって来たおっさんにこんな小さな枝で落とされるのは、やはりニブイに決まっている。関西弁でいえば、「どんくさいやっちゃなぁ」。

しかし我が家にはこのセミを貴重な蛋白源(?)として狙っている不敵者がいる。それは僕のプロフィールの写真に出演しているワンコだ。

彼女はもう中年過ぎのおばはんで、普段はゴロゴロと寝ころがってばかりいて食べることと寝ることだけが楽しみというような生活をしている。だから走ってもすぐにバテるし、わずか50cmほどの段でさえ跳び乗ることができない。要するにブーちゃんである。こんな有り様の上に最近は庭を掘り起こすことさえもしないので、鎖でつないだりもしていない。放し飼いだが、ウロウロすることもほとんどない。

ところが、である。そんな「グウタラおばさん」のくせに、夏になると野生に戻るのか、時としてセミを捕獲して食ってしまうのだ。だからライラックの木の下は彼女の狩場である。以前より家人から聞いてはいたが、先日、とうとうその現場を目撃してしまった。

  バサッ、バタバタバタ、ジジジ・・・
  (捕獲の音、捕まったセミの羽音、断末魔のセミの叫び)

ムシャムシャと口を動かしながらこちらを見た顔はまさに腹の出た不敵な野生のおばはんであった。

という訳で、この季節になると彼女は「蝉丸」と我が家では呼ばれることになっている。とはいえ、「せみまる!」と呼んでも知らん顔しているが。しかしまぁ、このグウタラおばさんに捕まるくらいだから、やっぱりクマゼミはにぶいに違いない。

しかし、暑い、暑いといいながら、今日は今年初めてのツクツクホーシの声を聞いた。この声を聞くともう夏も終わりかな。

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2004/08/07

雪渓崩落

先日(8/2)、新潟で雪渓の崩落事故があり3人の方々がなくなられたというニュースがあった。
これを聞いて思い出したのはA君のことだ。

僕は生まれは名古屋だが、中学二年になるときに神戸に引っ越してきた。A君も同じころにどこかから転校してきたが、クラスは一緒になったことはないし特に親しかったわけでもない。しかし進んだ高校が同じだったし、その中学からの入学は少なかったので、高校では顔をあわせれば挨拶程度はしていた。なんとなく同じ中学へ転校し同じ高校に進んだという仲間意識のようなものもあったように思う。

教科書を忘れたときに彼に借りたことが一度だけあるのがまともに話した最初だったと思うが、その時の彼の笑顔と姿は今でも鮮明に覚えている。

高二になると修学旅行だ。以前は九州などのありきたりのものだったが、その年から信州での自然を体験するということで登山と飯盒炊爨ということになった。当時の高校としてはかなり画期的なことだったらしい。そのためにテレビ朝日だったかどこかのテレビ局が取材に同行することになった。

秋、九月だったか、もう30年以上前なのではっきりしないが、集合は大阪駅だったと思う。朝早く、自宅から一番近い国鉄(今のJR)灘駅まで歩いていくとA君も来ていた。僕は学生帽が好きではないのでかぶってなかったし持ってもこなかったが、彼は結構固いところがあり、「帽子かぶってこな、あかんやん」と一言いった。一緒に大阪へ向かったという記憶もないので、それぞれに別の車両に乗って大阪に向かったのだと思う。

それが最後だった。

修学旅行は大阪から一旦日本海側に抜け、糸魚川からフォッサマグナを南下するコースだ。白馬山系のふもとで2~3泊程度だったと思う。生徒は二つの班に分かれ、僕の班は最初の日は雪渓付近の川原で飯盒炊爨、A君の班は八方池まで登山、翌日はコースが入れ替わるというものだった。

日ごろ六甲山系を間近に生活しているだけあって、登山や飯盒炊爨はお手のものの生徒が多い。だから全ては楽しく滑らかに進行していった。初日の夜、全員がそろってキャンプファイヤーを楽しんだ、あの舞い上がる火の粉もよく覚えている。

二日目はコースを入れ替えて、僕らは八方池まで登山だった。ただおかしなことは登山の途中から持っていたカメラがどうも写る気配がなくなりいくらシャッターを押してフィルムを巻いてもフィルムが終わりにならなかったことだ。

下山の最後はケーブルカーで降りて来たと思うのだがそのケーブルの柱の下に、一年のときの担任だったS先生が頭をかかえてうずくまっていた。その様子がただ事でないことは一目で分かったが、それが何なのかは知る由もない。

A君を含む3人の生徒が雪渓の下敷きになったのを聞いたのはそのしばらく後のことだった。雪渓の下に入り込んで記念写真を撮っているときに雪渓が崩落したのだという。一番外側にいた一人はかろうじて助かったというのも先日の事故にそっくりだった。

後で聞いた話では、参加していた生徒たちはみなで指から血が出るまで雪渓を掘り返そうとしたという。みな悔しくて仕方がなかったろう。

その翌日だったと思うが現地で簡素ながらとりあえずの葬儀が行われた。たまたま同学年だった麻耶山天上寺の息子さんと仏教大出身という英語の先生がお経を唱えている姿や、泣き崩れる女生徒を抱きかかえて連れて行く周りの生徒たちを、何か別世界の不思議な光景のように眺めていたのが思い出される。

その後はとにかく神戸へ帰らなければならないので、予定の道程に従って信州から名古屋や京都を経由して帰ったはずだが記憶は山の中を走る列車内と大阪駅に着いて解散したときのことしかない。

神戸へ帰ってしばらく後にA君の葬儀があり他の生徒たちと参列したのだが、A君が兄と母の3人の母子家庭だったのを知ったのはそのときだった。

特に親しかったわけでもないのに、何も考えているわけでもないのにただただ涙がとめどなく流れたのはあの時が最初で最後だったように思う。

僕のカメラは結局途中から何も写っていなかったが、それが何かの知らせだったと思うのは考えすぎだろう。

僕よりずっと礼儀正しく、ずっと成績もよく、生きていれば東大か京大でもいって一流企業に勤めるか学者になるか、はたまた医師になって親孝行もできただろうに。

人生も半世紀を過ぎてみると色んなことがあったが折に触れ思うのは、A君があの時に亡くなり、そして僕がこうして生きているのは何なのかということ、そして生かされているありがたさを感じると共に自分の生きる意味を時には考える。

この修学旅行は、先にも書いたように当時の高校としては画期的ということで、TV局が高校生の修学旅行を目的として最初から取材に同行していたため、その後特別番組として報道された。

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 <初日の飯盒炊爨の帰路での、もう黄ばんでしまった記念写真>
この中には、やはり中二のときに転校してきて同じ高校に入ったN君がいる。お互いに当時はやったモダンフォークが好きで、彼のガールフレンドと3人でPPM(Peter, Paul & Mary)もどきのバンドを組んだこともある。高3あたりから疎遠になってしまったが、スポーツ関係の記者になり記事も多く書いていたと聞く。交通事故で亡くなったという噂を聞いたが事実かどうか、確かめられずにいる。

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2004/08/05

同じ虹を見る

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BLOGにはまだ書いていなかったが、先週末の金、土は家族で淡路島の洲本温泉に行ってきた。ちょうど台風10号が来るときでどうなるかと思ったが、逆に台風ならではのスリリングな運転(?)を体験できたのもまたよき体験かな、だった。

おもちゃデジカメを持っていったのでいくつかの画像は既に僕のサイトにアップしたのだが、その中にきれいな虹を撮ったものがある。といってもカメラがカメラなんでそれなりの画像でしかないのだが、なんとこの同じ虹を淡路島の対岸側からゆうけいさんが撮っていた

いやぁ、世の中せまいというが、ほんまでっせ、とついつぶやいてしまったものだなぁ、という訳で早速ゆうけいさんのBLOGにトラックバックしたという次第。

関空は大阪湾をはさんで洲本の向いになる。洲本からは関空の真上から和歌山の方にかけてかかっていたのだが、関空からは生駒の方向にみえていたそうだ。虹と空間の配置を考えると頭がおかしくなりそうだ。

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