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2005/06/26

Moreau & Takebe

昨日はギュスターブ・モロー展を見にまた兵庫県立美術館に行ってきた。今回は娘も一緒で、モザイクのフィッシャーマンズマーケットのランチが食べたいとせがまれたので食事のためだけにハーバーランドに寄り道してしまったが、見晴らしのよい場所でゆっくりと好きなものを堪能できたので満足、満足。

モローは教育TVの「新日曜美術館」で取り上げられたのを見ていたので、ぜひ見に行こうと思っていた。神話や聖書を題材にした幻想的な表現が特徴だが、創元文庫にあるバローズの火星シリーズや金星シリーズにある武部本一郎氏の挿絵などはモローの影響がかなり大きいに違いない。学生のころは、内容よりも武部氏の挿絵みたさに本を買ったくらいなので、その原点と思しきモローの絵は是非見ておかなくてはならない。

モローの絵はTV画面や印刷などを見ただけでも随分と幻想的で、古典的な油彩技法でかなりこってりと描き込んだ色彩豊かな絵画に見える。しかし実際に見てみるとそうした絵もあるものの、全般にはかなり薄くさっと描き流したようであったり、下絵が透けていたり、あるいは漠然としていたりと、かなり印象が違っていた。色彩もそれほど色鮮やかなわけではない。随分以前だがムンクの絵を見た時も印刷に比べると随分と着彩の薄い画面に驚いたが、それに似たところがある。

もちろん、ポイントとなる部分(主人公など)はかなりこってりと明確に描き込んであるが、それ以外はかなりぼかしたような表現が多いのは、題材のある絵画なので主題に目が引き付けられるように考えられているのかもしれない。

TVでは裸のサロメに柄だけが線描されている「踊るサロメ」が紹介されていたが、同じ技法が「出現」でも使われている(リンク先の画像では線描が不明瞭)。TV画面でも単に線が描かれていることが分かるだけで、「未完成のまま線の美しさを表すためにあえて色を加えなかったとも言われています。」と解説されていたが、実際に絵をみると未完成というよりは意図的にこうした描き方をしたとしか思えない。

「出現」にはいくつかのバージョンがあるそうだが、今回の展示は線描が施されたモロー美術館所蔵の油彩画である。興味深いのは、離れて見たときには線描は模糊とした背景にうずもれサロメと宙に浮くヨハネの首だけが前面に浮き出ているのに対し、近づくにつれて線だけで描かれた装飾的な構造物と人物が背景に重なって現れることだ。あたかも漠然とした色彩だけの世界と、透明だがしかし明瞭な形を持つ線描の二つの世界が同時に重なっている中に、サロメとヨハネの首だけがそれを超越して存在しているように見える。いうなれば画面という二次元空間に二つの三次元空間を重ねて描いているような感じで実に巧みで効果的だ。moreau2
油彩画だけでなくデッサンや水彩画も多かったが、所謂水彩というよりはグァッシュのように不透明で厚くのせたような描画が多かったもの意外だった。左イメージの入場券にある「夕べの声」も油彩のように見えるが実は水彩だ。

ところで武部氏の「金星の魔法使い」表紙は白い線描を含めて「出現」から採っているのは明らかだが、改めて武部氏の表紙画をネットで見ていると、神話などを題材にした様々な名画からとっているものが結構ありそうな気がする。
ついでに検索していたら漫画家の山本貴嗣氏が武部氏について面白いことを書いているのをみつけた。山本氏のいうごとく、本当に最近は教養とは縁のない御仁が多いと思う。

今回、幸いだったのはまだ会期半ばだったせいかそれともモローはそれほどの人気でもないのか、土曜日にもかかわらず人が少なく、ゆっくり鑑賞できたことだ。しかし前回もそうだったが、照明が暗いのがかなわない。それと迷路のような美術館も困ったものだが、幸い娘はその辺りの勘がいいらしく迷わずにすんだ。

娘もモローは気に入ったようだが、むしろショップにあったヒロエニムス・ボスの「快楽の園 地獄」にあるキャラクター(?)のフィギュアが気になるようだった。こんなものがあるとは知らなかったが、確かにボスの世界はすごいね。

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2005/06/19

Just the way you are

家内が店じまいCD店で買ってきたBilly Joelのアルバム"Stranger"を聞きながら、リービ英雄氏の妹のインドラさんとの交換書簡を読んでみた。

ちょうど2001.9.11の後、偶然にもNYに入ろうとしてカナダで足止めを食ってしまった英雄氏とNYにいた妹さんの短いやりとりに、今の世界情勢につながる"始まり"のきな臭さが感じられる。

生粋のニューヨーカーのBilly Joelのこのアルバムは70年代だが、僕が始めてアメリカを訪れたのは1987年だった。いつもごく短い滞在ではあったものの、それから米国内のあちこちの都市を訪れ、その合間にNYには何度もいったが、インドラさんが書いているように、NYは確かにアメリカとは違う国のようなところだった。Billy Joelの歌は所謂都会的センスとよく言われていたと記憶するが、実際にNYに行くとその感覚がよく分かる。世界の中でも際立った特異点といえるだろう。

その後、しばらくアメリカに行くこともなくなったが、久しぶりに2003年に訪れた時はあちこちに星条旗が掲げられ、明らかな保守化が感じられた。その時の写真は僕のまったく更新していないサイトにあるのだが、しかし実際のところ、良識のある(という言い方は保守派にとっては語弊があるかもしれないが)アメリカ人は必ずしも今の米国の状況が良いと思っているわけではないと思う。それはインドラさんの書簡にも感じられることだが、しかし実際のところ、平和ボケし外交のまったくダメな日本でそんなことをとやかく言えるものでもないのかもしれない。

"A Few Good Men"というトムクルーズとジャックニコルソンの軍事裁判の映画があったが、あの中でジャックニコルソンが裁判の後半で、如何に国、あるいは世界秩序を守る決意があるかを語るシーンがあるが、それが当然と思うという国民性が、おそらくは厳としてあるのが米国なのだろうと思う。

外交もクソもない小泉も困ったものだが、平和ボケで世界に冠たる経済大国日本というのも素晴らしい存在ではないかとも思うものの、しかし世界の現実を見れば米国の保守化の前に言葉を継ぐのは難しい。たとえその原因のかなりが米国自身にあるとしても、東洋の無策政府は米国に頼らざるを得ないのが現実だろうし、それを変えようのないのも日本人である。

今日、たまたまというか、世界情勢についてのセミナーを聞く機会があったが、講師の京大教授によるとあと20年もすると、経済力、人口ともに巨大なアジアは米国、ECにならぶ第三勢力となるだろうが、その中心は中国人と華人(華僑)だろうということだ。日本は東洋のスイスとなるだろうとのこと。平和でハイテクで清潔で素敵な国だが、世界情勢には何の影響も及ぼすことができない。ま、それはそれでいいだろうが、・・・今とたいして変わらないかな。
ny-1988
しかしスイスと違うのはおそらく浮世絵から今のアニメに至る文化ではないかな。それなりに分野によっては世界に影響を与えているとは思うのだが。

イメージは1988年に始めて訪れたNY。映画"Working Girl"などに出てくるBattery Parkから出る連絡線から撮った写真。ワールドトレードセンターのビルがそびえている。

なんだか堅い話になってしまったが、しかしJust the way you areのフィルウッズのサックスはいいなぁ。ウッズのアルトがなければこの曲の魅力も半減というところだ(僕にとってはね)。

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2005/06/04

Tomb Raider kills Bill

Blogに「英語学習と音楽かな」なんて副題つけながら最近は別の話題ばかりなんだけど、今回もまた映画のことをちょっと書いてみよう。

一時期話題になったらしい「Kill Bill」という映画がある。実はほとんど見ていないんだが、家内がレンタルで借りてきて見ていた。どうもあのリアルさに凝った血なまぐさい描写には嫌悪感しか覚えないんで、ちらっとだけ見ただけなのだが、しかしあの殺陣は何とかならんかと思ったな。

ユマ・サーマンさん、ヒロインなんだからもうちょっと訓練してくれよ、なんだそのへっぴり腰は!刀を振り回すだけなら子供でもできるだろうに。

まぁ、巷にかかっていたポスターを見た時からこんなもんだろうとは思っていたけどね。あんな腕をねじって刀を肩に担ぐような構えは見たことがないし、まず刃先は常に相手に向けていなければならないが真上を向いているんだから。大体、脇があきすぎだよ、それじゃすぐに殺られるよ、って思ってたら案の定だったなぁ。八双の構えなら垂線から30度くらいかな、口の横辺りに右手がこなきゃ。ひょっとして自分の首を切る気かい?

敵の方がよっぽど腰が据わって刀も振り切れているから、本当なら簡単に切られてるところだね。タランティーノ監督って日本びいきだって噂だけど、自分の映画でこんな殺陣やってるんじゃどうかと思うけどねぇ。 まぁその辺りしか見てないんで、映画のストーリーとかは知りません。

tomb_raiderその点、ラストサムライのトム・クルーズはさすがに一流の俳優だと思う。実に腰が据わって剣が振り切れている。和服姿や正座もさまになっていたしね。しかしこの映画も途中までしか見てないな。これはもう一度きちんと見たいものだ。

さすがというと、もう一人、トゥーム・レイダーのアンジェリナ・ジョリーだ。彼女もこの映画のために相当な訓練をしている。両手でガンをクルクルっと回してスポっとホルダーに入れる芸当なんてのもそうなんだが、実際にイギリス軍で銃の扱いや格闘技の訓練をかなり受けたのだそうだ。だから最後の場面で差し出された二挺の銃の両手に持ち、振り向きざまに構えた時も両方の銃口がぴたりと相手の方に向いているね。でも、あのカラダとお顔が何とも魅力的でそっちに目がいってしまいがちですが。その辺りを堪能したければ「ジーア」って映画だろうな、題材は少々ヘビーだけど彼女のもっと若いころのカラダが堪能できますって、何の話だ!

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言の葉に力の宿る

朝日新聞とNHKのすったもんだはその後どうなったんだろうと思うが、NHKの受信料不払いは相変わらず増えているらしいし、朝日は不祥事が続くし、どっちもどっちだね。

大体僕は朝日新聞はあんまり信用していない。かつて知人が取材された時の記事が結構でっち上げだったことを知っているからね(幸いその方の不利益になる記事ではなかったが)。NHKもかの「プロジェクトX」で取材の行きすぎとかなんとか謝罪してたから、これもほんまにどっこいどっこいだが、しかし教育TVなんかはいい番組が多くて最近は特によく見るので、受信料は払ってやるよ。

「日本語なるほど塾」という番組で、最近は若い人の日本語力が落ちているというよく聞く話をしていた。大きな原因は本を読まないということは僕でもわかるのだが、このごろつくづく感じるのは自分を言葉できちんと表現できない輩が多いことだ。

とはいえ、僕が若いころにできたのかというと、甚だ心もとない。むしろ年齢とともに表現力がついてきたという気がするのであまり若い人のことは言えないが、それでも貧弱な語彙やら間違った表現にはがっかりすることしきりである。だから多少でも難しい表現を使うと果たして通じているのか不安になる。

も一つ、やはりNHKだが宮本亜門氏が小学生に文章から色々な背景を想像することを教える番組があった。ここでなるほどと思ったのは、文、つまり小説などを読むことで人はその背景を想像する力が養われ、それが日常生活であれ仕事であれあらゆる人生の場面でのその人の力の源泉になるということだ。脚本家はたった一つの台詞でも、その言葉が発せられる背景を周到に作り上げていかなければならないわけだから、その想像力というのは相当なものなのだろう。この番組では他人の気持ちを汲むという想像力に主眼が置かれていたが、想像力の必要性はそれだけには留まらない。

僕は会社で昇進させられたおかげで部下の面倒を見なければならなくなったのだが、中にはあまりの想像力の乏しさにあきれかえる御仁がおる。僕の部署の仕事である研究開発では、命題に対して予測を行い仮説を立てて試験を実施し、そこで得られる限られたデータの中から有益な情報を抽出してそれからまた先を予測し仮説を立てて・・・、という繰り返しなのだが、その際には宮本氏が言われるような背景を探り出す力が必要になるのは同じなのだ。

昔は文系、理系などと区別して理系の論理思考に文学はそれほど関係ないような気がしていたが、実はそうではないらしいと、このごろはつくづく思う。あらゆる場面でその背後に隠された事実あるいは虚構でもいいが、それを想像する力が必要なのだな。

件の想像力の乏しい御仁に聞いてみると、やはり本を読まない、あれこれ興味を持つことが少ないなど、日ごろから想像力の乏しい生活をしている。だから、本を読め、何でもいいから好奇心を持て、BBSなんか今は便利だから書き込んでみろ、などといっているが、一向に埒が明かない。まぁ、自分の人生だからね、最後は自分で何とかしなきゃならないのだが。

と思っていたら、美術手帳という雑誌に学校の先生が同じようなことを書いていた。最近は図工とか音楽などの授業数が削減され、以前から乏しかった芸術系の教育がますます少なくなっているのだが、美術表現でもやはり想像力と表現力が養われるということだ。まぁ、芸術は自己表現の手段といえるから当たり前といえばそうなんだが、その表現には自分の内面、つまり気持ちを表す表現と、対象となるものを再現する表現がある。

一般的に絵が上手というと、対象物をいかにその通りに再現できるかということだと多くの人が思っているのは、美術教育の歪みであるといえるがそれは別としても、いずれの表現にしろ何らかの形に表現するのは小説を読んだり文を書くのと同じように想像力を養う。しかし今の教育ではそれがないがしろにされている。その先生は数学の問題を解くにもそうした想像力が必要ではないかと述べているが、まさにそうなのだろう。

ここでは自ら表現をすることから想像力が養われるという、また別の側面が語られているわけだが、日常での表現といえばやはり「言葉」が圧倒的に大きな比重を占める。

古代人は「言霊」などといい言葉に魂や力が宿ると考えたそうだが、今はそれが真実だとよく分かる。何かをしてもらいたい時、言葉にして誰かに具体的に伝えない限りそれは実行されないとすれば、その言葉はまさに呪文と同じく力を持っているといえる。

人が頭の中にある漠然としたイメージをそのままでおいておくなら、それは動物や幼児と変わりがない。なぜなら言葉で抽象的なことを考え具体化していく過程が人を成長させ、また情報の伝達を可能にし物事が実行され進歩していくからだ。文化は言葉によって伝えることが可能になった時、普遍的に広がっていくことができる。だから言葉には力が宿るという考えは、その意味で正しいのだな。

「想像力の豊かな人は、相手の立場に立ってみる能力を有するから、思いやりのある人である」という文がここにあるが、そうした人はあらゆる場面でも有能になる能力を持っているだろうと僕は思う。

Levy以心伝心、阿吽の呼吸などというのは実は幻でしかない。ほとんどの場合は言葉にしなければ伝わらないのだから、表現力を養うのはとても大切なのだ。

そしてそれには文を書かなければならないのだが、それはまたそのうちに覚えていたら書くことにしよう。それを確信させてくれたのも、実はNHKの「日本語なるほど塾」での、日本語で小説を書く米国人作家、リービ英雄氏である。イメージはたまたま今日の日経の記事にあった氏の写真だが、ここで氏は「書くことは、さらされること」と仰っている。

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