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2006/09/18

A Girl With A Pearl Earring/Camera Obscura

間が開いてしまったが「真珠の耳飾りの少女」台詞考察、というよりは段々と舞台背景考察になってしまっているけど。

この間に図書館で原作を借りてきて読んだので、原作との違いや映画では読みきれなかった筋などがよく分かった。とはいえ、原作を後から読むというのは映像にイメージが捉われてしまうので、僕にとってはやはり逆の方がよいと思う。

さて、前回から場面は飛んで、あの、ウワサのカメラオブスクラが登場する場面。例によって聞き取れなかった部分は太字にした(スクリプトはCaption Swapを参照)。
V=Vermeer, G=Griet

A20060902231014 V: Do you know what it is? A camera obscura. Look into the glass. Here. Put this on.
(見やすいように自分のローブをかける)
G: Ah!.
V: You can see?
(Vermeerが一緒に覗いたのでびっくりしてローブを落とす)
G: I'm so sorry, Sir.
V: No, don't worry about the robe. What did you see?
G: I saw the painting. But..., how did it get in there?
V: See this? This is called a lens. Beams of reflected light from that corner pass through it into the box, so that we can see it here.
G: Is that real?
V: It's an image. A picture made of light.
G: Does the box show you what to paint?
V: Ha,ha. Hum. It helps.A20060918121920

二人が初めて親しく話し、なおかつローブの下に隠れるように並び、二人の心が一気に近づく決定的な場面だ。オフィシャルサイトの代表的な画面にもなっている。そちらはVermeerの目つきが何とも嫌らしいが、実際の映画ではそのような雰囲気でもなくさらりと流れる。まぁ、一瞬、スケベ根性を持ったということかもしれないが・・・中年男性は若い娘に弱いからね。台詞は相変わらずボソボソっと話すので微妙なところが聞き取れない。

Vermeerwaterpitcher_1 最初の二人の会話は・・・といってもVermeerが一方的に話すだけだが、ここでVermeerが描いている「水差しを持つ女」(左)の題材を、Grietが窓を拭いているところからヒントを得る場面で、このシーンの少し前にある。
また最初は椅子があったが塗りつぶして消してしまったのは、Grietが構図を考えて勝手にどかしたためという挿話も出てくる。もちろんいずれもフィクションではあるが、二人が互いに共感するものを見出す場面となっている。
ちなみに原作では二人でカメラオブスクラを覗き込む場面はなく、一人だけで覗いた後に上記の説明がある。
またGrietが構図に関与するのはこの絵ではなく、「手紙を書く女」(右下)のテーブルクロスを微妙に動かすことになっている。これらの構図の変化はX線写真による研究から明らかになった事実に基づいている。また 原作ではVermeerの作品は6つ出てくるし、顕微鏡を自作して様々な発見をしたLeeuwenhoekが友人として登場して、カメラオブスクラを何度も貸すことになっている。Vermeerladywriting_2

G: Does the box show you what to paint?
V: Ha,ha. Hum. It helps.

Vermeerのカメラオブスクラ使用には賛否両論があるようだ。
「箱は描くべきものを見せるのか(字幕=箱を覗いて描くの?)」、というGrietの問いに対しVermeerは笑い飛ばすような声を出した後、横を向いて考えながら"Hum. It helps.(字幕=参考にはなる)"というところからは、監督はカメラオブスクラを使ってそのまま描いていたというよりはあくまで参考にしたという解釈に受け取れる。

VermeermusiclessonCamera Obscuraの使用を理論的に立証したといわれるのがPhillip Steadmanで、こちらのサイトに説明が詳しい(英語です)。しかし最近の研究では否定的な意見も多くあるらしい。「謎解きフェルメール」の著者は否定的だし、ワシントンナショナルギャラリーのビデオにあるというCGでの再現でもやや否定的な結果が出ているようだ。Model3

その発端になったのが左上の「音楽の稽古」(原画)。Steadmanがミニチュアで再現したカメラ画像が右で、見事に再現されている(ように見える)。

Cgw_picture1_cap_92196_1 しかし最新のCGを駆使したInterface Media Groupの再現画像によると、正面の鏡はVermeerの描いた角度では天井しか映らず壁から35度の角度でないと女性像は見えないとか、窓から指す光による影が一致しないというような結果が出ているそうだ。左のCG再現図では影が原画(上)とかなり違っている。右下の横から見たCGにも原画とはやや違った鏡の角度や影が再現されている。Cgw_picture4_cap_92199

Steadmanの再現図も実際に写真で撮ったものだから正しいように思えるのだが、CG再現図との矛盾点はどうなっているのだろう?

しかし、Vermeerがカメラオブスクラを実際に使ったかどうかは別にして、彼の作品を見ればかなり手を加えていることは明瞭だと思う。Vermeermilkmaidp_1

「牛乳を注ぐ女」の消失点を見る(右)と、手前のテーブルの右端はとんでもない方向に向いているし、奥の壷はテーブルに乗っていないことになって理屈に合わないことがよく分かる。しかし原画(左)でそのような不自然さを感じることがないというところがVermeerたる所以ということだ。Vermeermilkmaid_1 ちなみに原作ではこの女性はGrietの先輩女中であるタンネケを描いた絵ということになっている。またGrietはオランダ語では「フリート」と読むそうだ。

*カメラオブスクラとフェルメールの関係については「謎解きフェルメール/小林頼子、朽木ゆり子/新潮社」、及び上記にあるリンクによります。また作品画像はMy Studio.comから。

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2006/09/14

学生の頃、というから1970年代初頭だが筒井康隆の、どの本だったか、電話帳は「あいうえお」順で見出しがあって、個人やら店やらが掲載されているが、「ん」という見出しはない。だから「ん」という店を作れば、電電公社(今のNTT)はその店だけのために新しい見出しを作らなければならなくなる、というような話があったと思う。エッセイだったのか「欠陥大百科」にあったのか。

Tutui それを実際にやってしまった人がいた、というのも読んだ記憶があるのでネットで調べてみたら、それは「乱調文学大辞典」に載っていたらしい。

学生当時は筒井康隆に凝って、手に入らない本は大阪の古本屋まで探しに行ったこともあったが、働き出してから筒井康隆には興味がなくなり、大阪から神戸に引っ越す時にほとんどの本を処分してしまった。だからどちらの本も確かめることはできないのが、今となってはちょっと残念。

神戸三宮と阪急六甲に「ん」という喫茶店ができたのは74年前後だったのではないかな、僕も六甲の「ん」には学校の行き帰りによく通った。これも調べてみると、今でも全国に何箇所かはあるらしい。神戸が最初だったのかどうか知らないが、当時から筒井康隆も神戸在住だったから、関係は深いかもしれない。近畿圏では今も尼崎にあるらしい。

当時は高級喫茶店というのか、コーヒーや紅茶が一杯500円というような値段の喫茶店がぽつぽつと出ていて、「ん」もその一つだった。内装も高級志向でBGMはバロックなど。

筒井康隆の本を読んだのだろう、「電話番号案内でこの店の番号は教えてくれるのか」などとオサムイことをマスターに訊いている客を見たこともある。マスターはよく言われるのだろうか、「『ん?』といって教えてくれますよ」などと応えていたことが懐かしい。その喫茶店も数年後にはなくなってしまった。

考えてみると、「ん」と道路をはさんであった行きつけの喫茶店、確か「トリノ」だったと思うが、そこでもコーヒー一杯200円くらいでそれが相場だったような気がするから、今から思うと意外と喫茶店のコーヒーってのは高かったんだなぁ・・・その分、結構粘ったかもしれない。「トリノ」のマスターは当時はやってた漫画の「750ライダー」に出てくるマスターを小柄にしたような気さくな人だった。こちらは大学卒業後も何度か行ったし、家内と結婚前に行った時もまだ覚えていてくれて「いつものですね」と言ってくれたのも懐かしい。今はどうなっているのだろうか。

筒井氏は一度だけ、学生時代に軽音楽部の溜まり場になっていた「MAY HWA(メイファ)」という中国人の経営するレストラン&バーで見かけたことがある。時々来ていたらしい。後輩がそこでバイトしていた時、彼の作品を山上たつひこが漫画化した本にサインを頼んだそうだ。「山上たつひこの本に俺がサインするのか?」とやや不機嫌そうにしながらもサインをしてくれたそうな。

ちなみにMAY HWAはママさんの名前。歌の上手な美人で、そういえば"Watch What Happens"の伴奏をさせられたことがあった・・・されられたというのは、記念なのかなんだったのか歌を録音して残しておきたいというママの話に、伴奏は?、という段になってなぜか僕が推薦されてしまったからなんだけど、あのテープ、まだあるのかしらん。聞いてみたいような、消してしまいたいような・・・。

そ、そうだ思い出した、Musser M-55のヴァイブを初めて家から持ち出して演奏したのもあのメイファの新年会だったような気がする。

何だか70年代というのは、色んなことがあったような気がするがそれは自分が色々と新しい経験やら変化をした時代だったからかもしれない。

さて、こんなことを思い出したのは、坂口安吾全集の14を読んでいたら収録のエッセイ「新作いろは加留多」の書き出しが次のように始まっていたからだ。

いろは加留多には「ン」がない。多分ンで始まる言葉がないからだろう。

何だ、「ん」は筒井のオリジナルじゃなかったんだ、坂口安吾の二番煎じだったんだ・・・ひょっとすると、さらにもっと前に書いた人もいたかもしれない。

筒井康隆の本は面白いものもあるが、ワンパターンなのも結構あってやがて飽きてしまったんだけど、一冊だけまだ置いている本がある。神戸の街についてのエッセイが載っている本で、彼の描いた漫画なんかも載っているのだが、物置のどこかにしまっているのでタイトルが確かめられない。ネットで検索してみると、どうやら「暗黒世界のオデッセイ」のようだが、ちょっと分からない(多分あってると思うが)。

三宮から神戸駅に至る、改装前の怪しげだったころの高架下商店街などが紹介されていて、そ地元民にはなかなかと面白い本なんだけどね。そうそう、大学の時にchachamaruさんとその改装前の高架下を延々と歩いたこともあったっけ。

最後に「新作いろは加留多」から「ン」:

ンをウンと読む利口者 (坂口安吾/新作いろは加留多)

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2006/09/06

Night Train

今日は久しぶりにBGMをヘッドフォンで聞きながら、速読練習をしてみたが、相変わらず進歩がない。

Dynamic_duo ところでBGMにはなつかしの"Jimmy and Wes: Dynamic Duo"を聞いたのだが、昔をついつい思い出してしまった。このアルバムは僕が高校の頃だったか次兄が買ったのを聞いたのが最初だが、当時はまだJazzに興味がなくて内容より二人がホットドッグだかサンドイッチに食らいついている珍妙なジャケットだけが印象に残っていた。

大学に入ってからJazzを聞き始めたりVibを弾き始めたりでこのアルバムもまた聞いたりしたが、ついつい当時、Wesをアイドルにしていた先輩ギタリストを思い出してなつかしい。

ところで、かつてのNifty Jazz Forumでインストものに日本語の歌詞をつけるというツリーがあって、その時に次のような歌詞を紹介したことがあった。これは件のWesを目指していた先輩が歌っていたもの。

おくれる~よ、まだまだ間に合うわ
おくれる~よ、まだまだ間に合うわ
急いで急いで、急いで汽車ポッポ、ポッ、ポッ、ポ~
急いで急いで、急いで汽車ポッポ、ポッ、ポッ、ポ~

これはこのアルバムにも入っているブルースの"Night Train"につけた歌詞なのだが、多分、Jazz Forumでは何を血迷ったか、"Take The A Train"と書いてしまった。

今更遅いが、訂正します、アナ、ハズカシヤ。

そういえば、このblogのどこかにも書いた記憶があるな、今度また訂正しておかねば(ダレも読まないけど)。

しかしこの二人のスウィング感、グルーヴ感はいつ聴いてもすごいね。

2018.11.10追記:

この記事を書いた当時にはなかったYouTubeの音源を埋め込みました。

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2006/09/03

一休み

映画「真珠の首飾りの少女」について続けて書いているが、まだまだ先は長いしややダレてきたのでちょっと一休み。

とはいえ、気になるので検索してみたら日本語のオフィシャルサイトがあった。つらつら読んでみると(英語サイトは面倒なので読んでいなかった(;^^;)、僕の感じた印象と作家やプロデューサーの描こうとしたものは微妙に違うようだ。

Dscf0176 彼らの言葉には、「謎、苦悩、破滅」などという語がちりばめられているが、僕が受けた映画の印象はあまりそうしたものではなく、むしろ当時のメイドが自意識を持つならばこのくらいの苦労はあったろうし、恋愛感情よりも同じ美意識を持つもの同士の共感を描いた点がむしろ際立っていたように思う。阻害された環境にある者どうしが、共有できるものを互いの中に見出す、それはもしかしたら恋愛を超越したものかもしれない。

とはいえ、作者や演者がそう言っているのだから僕の見方が偏っているのだろうが、まぁ、それは観る人の勝手ですからね。ところで映画のラストではGrietが破滅に至ったとはどうも思えないのだが、アマゾンの評を読むと原作とは違うらしい。そこで原作を読んでみなければ、と思い立ったのだが、未読の山が160冊以上というJazMys氏がBlogでおっしゃるように、図書館をもっと利用すべきだと今頃になって気がついた。

という訳で、これから隣町の稲美町立図書館へ行ってきます。置いてあればいいけどね。なかったらこの間返却した「謎解きフェルメール」をまた借りてこよう。

イメージは稲美図書館と多目的ホール。ただし写真は昨年だったかに撮ったものですが。

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2006/09/02

A Girl With A Pearl Earring/The Next Subject

Vermeerの新作披露パーティー台詞考察3回目。前半は2回目を参照ください。

wife: I cannot bear the suspension a moment longer, Master van Reijin. Pray tell us what you think.
van Reijin(VR): This is good. Colour, perspective is true, illusion is perfect. All this skill lavished on my dear Emillie, why, it's almost as if she were thinking.
mother: And have you considered the subject for your next commision? We cannot expect you to give up Emillie for so long again.
VR: Considered? That's already in hand, didn't I tell you? A coming fellow from Amsterdam studied under Remrandt van Reijn, though, who hasn't these days? "A merry company by candle light", candle light being his forte.
mother: Oh.
VR: So have you decided what to daub next, Jan? Have you found inspiration up in that room of yours? Is there another patron in Delft with pockets as deep as mine?
Vermeer: I've not yet found the subject.

it's almost as if she were thinking.
she wasではないから、実は考えていないのだがまるで考えているような、という非現実の仮定法だ。映画を通じて感じるのは、van ReijinもVermeerもあたかも妻を大切にしているようで、実は愚か者と見做しているという点だろう。それがこの場面での二人の妻への振る舞いや接し方に如実に現れている。当時の時代背景ではこうした女性蔑視は別に珍しいものでもないのだろうが、どうも馴染めないなぁ。

We cannot expect you to give up Emillie for so long again.
言葉自体は簡単だし聞き取りやすい部分だが、give upが日本語化しているだけに意味が分かりにくい。細かく説明すれば、今回の絵のモデルになるために長い間、ご主人から奥様を離していたから、「また長い間あなたに奥様を(そばに置くことを)あきらめていただくことを期待するのはできません」ということになる。字幕は「奥様にモデルを頼むのは恐縮で」。

A coming fellow from Amsterdam studied under Remrandt van Reijn, though, who hasn't these days? "A merry company by candle light", candle light being his forte.
comingは「将来有望な」という意味。Rembrandtの弟子のようだが、誰なのかは調べてみたが分からなかったし、"A merry company by candle light"という作品も見当たらない。検索して出てきたのは、この映画に関係するものだけだから創作かもしれない。

...., though, who hasn't these days?
whoはRembradtのことだろう。who hasn't been around these daysというような意味合いかと思うが、この映画の主題である「真珠の耳飾りの少女」が描かれたのが1665年頃と言われる。Rembrandtは既に経済的に破綻、1663年には彼を支えてきた妻ヘンドリッキェを亡くし、作品は評価されず失意の晩年の時代である。さらに1668年に最愛の息子が亡くなり1669年には本人が亡くなっている。

A20060902172528 VR: So have you decided what to daub next, Jan? Have you found inspiration up in that room of yours? Is there another patron in Delft with pockets as deep as mine?
Vermeer: I've not yet found the subject.
太字にした、Jan, Haveがつながって何を言っているのか聞き取れなかった。JanはもちろんJohannes Vermeerの愛称ということだろうが、そんなこと知らんもんねぇ。
しかし"So have you decided what to daub next, Jan?"という言葉に、Vermeerの方を盗み見するGrietの表情が、彼への想いと期待を見事に表していて、初々しさと美しさにあふれている。これからの二人の秘めた関係を暗示しているようで、僕の好きなカットだ。イメージにある字幕はその後のdeep pocketsの台詞なのでずれてしまっているが。

さて、パーティーは終わるが話はまだまだ序盤です。

ところで、前々回のIndian Yellowだがその際に示した資料によれば1883年の捜査まではイギリスが製法を秘密にしていたということだから、Vermeerの時代にはそれが牛の尿から作られていることは知られていないはずだ。そうなるとvan Reijinの台詞はウソということになるのだが、まぁ、これは話を盛り上げるちょっとした挿話として許されるかな。ちなみに同じ資料の中にはIndian Yellowは1500年発見というのもあるし、最初はオランダの画家が使い始めたとあるから、それならVermeerも使った可能性はあるね。

参考(Rembrandt)
http://www.asahi-net.or.jp/~sq3t-ktu/page072.html

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2006/09/01

A Girl With A Pearl Earring/Illusion

A20060902144803 映画「真珠の耳飾りの少女」の台詞考察2回目。前回に続く絵画「真珠の首飾り」を中心とした場面。会話はvan Reijinを中心に進むが、Reijin役の話し方はかなり癖があって分かりづらい。うまく聞き取れないところが多かったが、自分の間違いを書くのも紙面の無駄だしハズカシィ、なので間違ったところは訂正を太字で記した。台詞はCaption Swapが前回に紹介した Dialogue Transcriptよりも正確なようだ。他の映画の台詞もあるらしい。

wife:Vermeerの妻、van Reijin(VR):Vermeerのパトロン
Emillie:VRの妻、mother:Vermeerの義母

wife: I cannot bear the suspension a moment longer, Master van Reijin. Pray tell us what you think.
van Reijin(VR): This is good. Colour, perspective is true, illusion is perfect. All this skill lavished on my dear Emillie, why, it's almost as if she were thinking.
mother: And have you considered the subject for your next commision? We cannot expect you to give up Emillie for so long again.
VR: Considered? That's already in hand, didn't I tell you? A coming fellow from Amsterdam studied under Remrandt van Reijn, though, who hasn't these days? "A merry company by candle light", candle light being his forte.
mother: Oh.
VR: So have you decided what to daub next, Jan? Have you found inspiration up in that room of yours? Is there another patron in Delft with pockets as deep as mine?
Vermeer: I've not yet found the subject.

自分の耳だけだと中々うまく聞き取れないが、正しい台詞が分かってからだと意外と簡単に聞こえたりするところが、ちょっと悔しいね。

I cannot bear the suspension a moment longer, Master van Reijin. Pray tell us what you think.
「真珠の首飾り」のような手を上げたポーズには一瞬でも絶えられませんわ、というところ。Master van Reijinは名前と思わなかった先入観で聞き取れず。
Pray tell us・・・Please tell usかと思ったのだが、このprayは古語で副詞だそうだ。意味はplease に同じ。

Colour, perspective is true, illusion is perfect.
ここが曲者の第一弾、Colour, perspectiveで切り、is true illusionと言い、is perfect.と締める。だからてっきり、Colour, perspective, its true illusion, it's perfect.だろうと思ってしまう。似たような話し方が後にも出てくる。

Colour(時代を考えてイギリス綴りに)は色彩、perspectiveは遠近法。Vermeerは色彩に加え遠近法を駆使したことでも有名だが、それが映画にも出てきたカメラオブスキュアという写真器の前身を使ったのではないかという仮説を生み出している。実際のところ、初期の作品では遠近法に拘りすぎて不自然になっている部分もあるそうだ(「謎解き フェルメール」 小林頼子 )。
素人考えでは遠近法を正しく使えば、少なくとも3次元的表現が必ずできるように思いがちだが、実際に人間の目には却って不自然に映ったりする。それは人間の目が視野全体を一度に見ているわけではなく、頭や視線を動かしてみるために遠近法の消失点が一点に定まらないからなのだそうだ。だから名画といわれる写実画の消失点は一点ではなく何点もあることがよくあるらしい。例としてルノアールの奇妙にゆがんだ空間も、わざとしたというよりそれぞれの対象物に視点を移して見たままを画面に再現した結果だという説もある(「絵画技術入門」 佐藤一郎)。

Vanishing_poitss_1 多消失点の例としてよく引き合いに出されるvan Eyckの「アルノルフィーニ夫妻(1434年)」に、消失点につながる線を引いてみよう(左イメージ)。消失点が3箇所ある上に平行線があったりしているが、絵自体に不自然さは感じない。これをして、van Eyckは遠近法を理解していなかったという論もあるが、前述のように実際に目でみたままを描いたか、あるいは鑑賞者の視線が向かう方向を計算して描いたとも言われる。実際、以前にNHK新日曜美術館でCGにより消失点を水平線上の一点に来るように変形させると却って不自然な画面になる実験を見せていた。
van EyckはVermeerより200年くらい前の画家。ほんの20年ほど前までは油絵具を初めて開発した画家といわれていたが、実際にはそれ以前から油絵具らしきものがあったことが現在では分かっている。今では現在に至るまでの油彩画の技法の基礎を確立した画家と認識されている。イメージはThe Archiveから。

さて、それに関連してillusion-字幕では「幻想性」となっているが、ここでは絵画的意味の「幻影」としたい。

本来は、現実に存在しないものを存在するかのように誤解することを意味している。写実絵画の場合、物体としては手で触るまでもなく画布は平面にすぎないのに、描かれている対象物には量感や奥行きが感じられ、三次元の立体、空間があたかも画面の中に存在しているかのように見えてしまう。このことを幻影illusionという。(「トンプソン教授のテンペラ画の実技」 佐藤一郎監訳

しかし今ではさらには抽象表現における「幻影」あるいは「錯覚」として意味は広がっているようだ

少々長くなったので、続きは次回に。

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