Silly Joke
哲学入門書である「ソフィーの世界」を読んでいると、西洋哲学は理性と宗教との間をいかに折り合いをつけていくかの歴史だったように思える。
キルケゴールにとってキリスト教は圧倒的に重要だったし、しかも理性に反するものだったので、これはもう、あれかこれか、つまり信じるか信じないかのどちらかしかなかった。『あまり』信じないとか、『そこそこ』信じるなんてあり得ない。
同じような話が「ダ・ヴィンチ・コード」でも出ていたと思う。
翻って、日本人ほど宗教に無頓着な人種も少ないと言われる・・・自分自身がそうだから、僕もそう思う。今、読みつつある「文明の生態史観(梅棹忠夫)」で、日本に行こうとしているアメリカ人に日本人の宗教観について質問され、梅棹氏が「さあね。あなたはどういう宗教観を持っているかという質問は、日本では、最も間の抜けた質問でしょうな」と応え、アメリカ人がたまげるという件があり、思わず噴出しそうになった。
などと大上段に構えたが、そういう次元の高い話ではない、意味不明なものを吹聴したり信じたりする輩が巷では相変わらず後を絶たないようだ。
corvoさんのblogで「水からの伝言」なるものが取り上げられている。corvoさん同様、幸いにも僕は知らなかったのだが、こんなものを本気で信じて本まで出版され、またそれが売れているというから、全くの話、馬鹿らしくて空いた口がふさがらない。まぁ、出版している本人はそれで収入があるから商売と割り切ってもよいし、一種の新興宗教としてみるならそれもいいが、本気でそれが科学であると信じて疑わない人がそれほど多くいるということがあまりに情けない。とうとうオノヨーコまで出てきたらしい。
「水からの伝言」に対する反論は、学習院大学の田崎教授による「水からの伝言を信じないでください」というサイトを読んでいただくのが一番よいと思う。ここには科学的な考え方の基本も述べられている。あるいはもっと面白いのは、ずっと以前から「水商売」を追っかけているお茶の水大学の富永研究室だろう。「水商売ウォッチングコメント一覧」を見ると色んなことを考えて商売をしている人がいるのに関心(寒心?)する。
まぁ、これも一種の信仰だからそれによって心が休まるとか豊かな気持ちになれるのなら、サービス業として認められるかもしれないが、法外な価格で売りつけたり科学として通用させようというのは如何なものかということだね。
これまた「ソフィーの世界」にある言葉だが、キリスト教、つまりは信仰というものについて次のような言葉がある。
不条理ゆえにわれ信ず、つまり頭で考えたらでたらめなことだから、これはもう信じるしかない、ということだ。
この言葉だけではキリスト教がでたらめのようになるが、そうではなくて、理性で証明できないことは信じるか否かの問題だということだ。
あるいは、溺れかけている人について:
君は池に落ちたら、これはおぼれるケースかどうかなんていう、冷めた関心のもちかたなんかはするわけがない。そこにワニがいるかどうかも、興味があるかないかの問題じゃない。それは生きるか死ぬかの問題だ。
生きるか死ぬか、とは言わずとも、人の心に余裕がなかったり客観的に考える力がなかったり、あるいは切羽詰った状態(金銭的にしろ、健康的にしろ)にあるところに、こうした信仰とある意味では同じような手段でつけ入ろうとする輩が後を絶たないということだね。僕もうっかり騙されそうになるが、まずは一歩さがって色々と調べることが大事だ。それこそ今はネットであらゆる情報が得られるのだから、後はそれをどう解釈するか・・・ただし却って騙される方向に向かう危険性もあるから、恐ろしいともいえるが。
ところで、corvoさんの『美しさ』の概念に対する考察も素晴らしい。
蛇足だけど、もともとこの記事のタイトル「Silly Joke」は日本における血液型による性格判断に対するものだったのだけど、corvoさんのblogを読んで脱線してしまったのだった。日本に住んでいるアメリカ人に聞けばきっと、「アメリカでは血液型についての質問は一番間の抜けた質問でしょうな」といわれるだろうが、何でこうも日本では広がっているのか?これも「水からの伝言」と同様に馬鹿げた話だと思うのだが。
先日も、二次会でお酒の入った場(僕は飲めないので飲んでいないけどね)とはいえ、仕事に関連した話の中で、それなりのステータスもあり分別のあるべき年齢の人から、血液型を聞かれて性格判断された時には、びっくりすると共にその人の知性を疑ってしまった。これも一種の信仰なのか?
上のイメージは何の関係もないけど、JR神戸線の車窓からの明石海峡大橋。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (1)
最近のコメント