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前々回の「最後の国境への旅」でのコメント欄で、内田樹氏のBlogにあった「マンガ脳」というエントリーが眉唾ものではないかとcorvoさんからご指摘いただいたことから、ちょっと考えているうちに時間が経ってしまった。
内田氏というと、面白い視点で考える人だとは、養老孟司氏との対談「逆立ち日本論」を読んだときに思ったが、一方で二人とも庶民感覚とは少しずれた世界の人という気がした。
「マンガ脳」を検証しようとか思ってみても、自分自身が専門家でもないのだから重箱の隅つつきとか見当違いになっても面白くないので途中でやめてしまったが、読み直して感じたのは、件のエントリーでは思い込みであったり自分の都合のよい(検証されていない、あるいは古い)理屈を使って自分の望む方向に結論を持っていっているように見えるということだった。
しかしこれでは何のことか分からないので、僕が考えた範囲でのことを書き出しておこう。これも僕の都合のよい部分だけ取り出して僕の都合のよい結論に持っていっているといわれれば、それまでだが、まぁ、素人が大学の先生に対するわけだから、高が知れたこととお許し願いたい。
内田氏はまず次のように書いている。
日本語は「漢字とかなを混ぜて書く」言語である。
漢字は表意文字であり、かなは表音文字である。
この二つを脳は並行処理している。
アルファベットは表音文字であるから、欧米語話者はそんな面倒なことはしない。
恐らくこの前提を読んでうなづく人は多いと思う。僕も読んだ時には疑問も抱かずに通り過ぎてしまった。僕は言語学者でもないので、これが正しいのかどうか検証しようにも文献もないしネット検索してもそれが信用できるかどうかも分からないのだが、Wikipediaで調べても、現在では表意文字にあたるのはアラビア数字などで、漢字は表語文字と呼ばれているようだ。
教育者としては最新の情報に基づいていないのが既に問題ではないかと思ったりするが、それだけでは重箱の隅つつきにすぎないので、他に何かないかと探してみて出てきたのが、たまたま持っていた「ことばの比較文明学/梅棹忠夫、小川了編」だ(この本は絶版のようです)。
この本は1990年に初版が出ているのだが、読んでみるとやはり表語文字にあたるLogogramという言葉が使われており、この時点で既に「表意文字」と「表音文字」を区別するという考え方は実験や過去のデータから否定されている(J.Marshall Unger/ハワイ大教授(当時)。
Unger氏はここで「形態素」という概念を使っている。Wikipediaの説明はかなり難しいが、僕が簡単に理解した範囲でいえば、意味を持つ漢字は形態素であり、英語の単語も形態素といえるようだ。
例として出ているのが、"right"とwrite"である。これらは同じ発音だが入れ替えることはできず、別の意味を持つ。アルファベットは表音文字といわれるが、実際の英語は内田氏が「アルファベットは表音文字であるから、欧米語話者はそんな面倒なことはしない。」というような単純なものではなく、ひとつの単語を形態素、つまりは漢字と同じような機能でとらえているということだと、とりあえず僕は理解した。
内田氏が続いて書いている失語症についてもUnger氏は直接ではないが否定的に思えることを書いている。
この本が出版されてから既に19年になろうとしている現在ではまた変わっているかもしれないし、編者の梅棹忠夫氏が日本語ローマ字化の推進者であることも差し引いて考えないといけないかもしれないが、まぁ、とにかく事はそれほど単純ではないということは確かだろう。
続いての次の記述もよく聞く話だが、本当だろうか。
とりあえず脳科学について知られていることをおさらいしてみよう。
角田忠信によると、日本人は鳥の声や虫の鳴き声も言語音として左脳で処理している。
これに対する反論はネット検索結果を紹介するに留めよう。どちらが正しいか判断できる材料を僕は持っていないし、角田忠信の『日本人の脳』も読んでいないのだが、引用URLの方が僕には尤もなように思える。
http://blog.ohtan.net/archives/51282596.html
corvoさんの指摘されたマンガ脳に関する記述部については、もともとの話題の英語と日本語とは直接関係がないのであまり興味がなかった上に、何だか思い込みで書いるような気がして飛ばし読みしていたのだが、確かにcorvoさんが指摘された「画力のあるマンガ家は、話も面白い」という部分はおかしいと思う。
というのは、マンガ家を見て知れることの一つは、「画力のあるマンガ家は、話も面白い」ということだからである。
絵はめちゃめちゃうまいが、話は穴だらけ、とか、ストーリーは抜群だが、デッサンがどうも狂っている・・・というようなマンガ家は(あまり)いない(青木雄二くらいである)。
画力と物語構成力はマンガにおいてはおそらく脳内において並行的に発達している。
大友克洋、鳥山明、井上雄彦・・・ワールドワイドに画風のフォロワーを有しているマンガ家たちは、いずれも創造性あふれる抜群のストーリーテラーである。
これをどうして「変だ」と思わずに来たのか、その方が不思議である。
挙げられているマンガ家は一流といわれる人である。そしてマンガは絵とストーリーからなる。競争の激しいと思われるマンガの世界で生き残りかつ一流と認められるには、絵もストーリーもうまいのは当り前である。鶏と卵のたとえになってしまうのかもしれないが、いやしくもマンガのプロなのであるから、両方ができる才能のある人が生き残ると考えるのが普通ではないかと思う。それが「変だ」と思う方が「変だ」と思う。
一方で原作者が別にいるマンガはよくある。現在、少年ジャンプで連載中の「バクマン」(冒頭の画像-アマゾンより)はそれを題材に取り上げたものであるし、このマンガ自体が絵とストーリーが別の人だ。
絵を描いている小畑健氏のヒット作は「ヒカルの碁」、「デスノート」など原作者は別で自作のストーリーではないが、画力は抜群だと思う。小畑氏がそうだというわけではないが、corvoさんが指摘されていたように、画力があってもストーリーが面白くない人もいるに違いない。
そのように考えると、内田氏は「マンガ脳」のエントリーでは「日本人は特別だ」という結論に導くために都合のよい話を並べているように思えた、ということです。
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