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2009/01/28

マンガ脳-補足

前回のエントリーの「マンガ脳」について補足調べをしてたら、やはり内田樹氏は少々(かなりかも)怪しい系に見られている人でもあるようだ。

内田氏のエントリーを読んでいて、説得力のある(ような)テンポのよい文章に僕もついつい半分信じてしまいそうだったけれど、一方で物事を単純化しあたかも既成事実のように色んな説を並べて自説を補強していくスタイルは、SF商法に通ずるような胡散臭さも感じていた。何だか後だしジャンケンみたいだけどね、わははは、違うかぁ!

ま、とにかく、こういうスタイルとか話術にはまってしまう(はめられてしまう)人は多いんではないかと思う。

せっかくなので、見つけたサイトを挙げておきますので興味のある方はどうぞ。

思索の海

管理者のdlitさんは言語学者だそうです。参考リンクが一杯あって、まだ読み切れてませんが、リンクをたどるとなんだか見たことのあるサイト、と思ったらcorvoさんのコメントもありました。そういえば以前に読んだような気がする。

Rauru Blog
raurublock on hatena どちらも、ultravioletさん

dlitさんやultravioletさんの記事や、リンク先を読んでいると内田氏の前提とする各説が次々と崩れてくる。これでは、倖田來未ちゃんの羊水腐敗説と、どっこいどっこいではないかと・・・違うかぁ!

まぁ、これもリンク先の話が正しいという前提での話です。それとこうした批判は、それはそれで変な方向に行って怪しい系になってしまうこともよくあるので、読まれた方々は、どちらも鵜呑みにせず、ご自分で判断することが肝要かと存じまする。

ところで「違うかぁ!」ってのは便利だね。「言ってみたけど断言はしていないよ」と言い逃れしているわけだ・・・されど、逃げ道は確保しておけ、だな。

関連エントリー
- マンガ脳について

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2009/01/25

マンガ脳について

更新が少々滞っております。

前々回の「最後の国境への旅」でのコメント欄で、内田樹氏のBlogにあった「マンガ脳」というエントリーが眉唾ものではないかとcorvoさんからご指摘いただいたことから、ちょっと考えているうちに時間が経ってしまった。

内田氏というと、面白い視点で考える人だとは、養老孟司氏との対談「逆立ち日本論」を読んだときに思ったが、一方で二人とも庶民感覚とは少しずれた世界の人という気がした。

E757d0920ea09aec7b1be110_l 「マンガ脳」を検証しようとか思ってみても、自分自身が専門家でもないのだから重箱の隅つつきとか見当違いになっても面白くないので途中でやめてしまったが、読み直して感じたのは、件のエントリーでは思い込みであったり自分の都合のよい(検証されていない、あるいは古い)理屈を使って自分の望む方向に結論を持っていっているように見えるということだった。

しかしこれでは何のことか分からないので、僕が考えた範囲でのことを書き出しておこう。これも僕の都合のよい部分だけ取り出して僕の都合のよい結論に持っていっているといわれれば、それまでだが、まぁ、素人が大学の先生に対するわけだから、高が知れたこととお許し願いたい。

内田氏はまず次のように書いている。

日本語は「漢字とかなを混ぜて書く」言語である。
漢字は表意文字であり、かなは表音文字である。
この二つを脳は並行処理している。
アルファベットは表音文字であるから、欧米語話者はそんな面倒なことはしない。

恐らくこの前提を読んでうなづく人は多いと思う。僕も読んだ時には疑問も抱かずに通り過ぎてしまった。僕は言語学者でもないので、これが正しいのかどうか検証しようにも文献もないしネット検索してもそれが信用できるかどうかも分からないのだが、Wikipediaで調べても、現在では表意文字にあたるのはアラビア数字などで、漢字は表語文字と呼ばれているようだ。

Dscf2383 教育者としては最新の情報に基づいていないのが既に問題ではないかと思ったりするが、それだけでは重箱の隅つつきにすぎないので、他に何かないかと探してみて出てきたのが、たまたま持っていた「ことばの比較文明学/梅棹忠夫、小川了編」だ(この本は絶版のようです)。

この本は1990年に初版が出ているのだが、読んでみるとやはり表語文字にあたるLogogramという言葉が使われており、この時点で既に「表意文字」と「表音文字」を区別するという考え方は実験や過去のデータから否定されている(J.Marshall Unger/ハワイ大教授(当時)。

Unger氏はここで「形態素」という概念を使っている。Wikipediaの説明はかなり難しいが、僕が簡単に理解した範囲でいえば、意味を持つ漢字は形態素であり、英語の単語も形態素といえるようだ。

例として出ているのが、"right"とwrite"である。これらは同じ発音だが入れ替えることはできず、別の意味を持つ。アルファベットは表音文字といわれるが、実際の英語は内田氏が「アルファベットは表音文字であるから、欧米語話者はそんな面倒なことはしない。」というような単純なものではなく、ひとつの単語を形態素、つまりは漢字と同じような機能でとらえているということだと、とりあえず僕は理解した。

内田氏が続いて書いている失語症についてもUnger氏は直接ではないが否定的に思えることを書いている。

この本が出版されてから既に19年になろうとしている現在ではまた変わっているかもしれないし、編者の梅棹忠夫氏が日本語ローマ字化の推進者であることも差し引いて考えないといけないかもしれないが、まぁ、とにかく事はそれほど単純ではないということは確かだろう。

続いての次の記述もよく聞く話だが、本当だろうか。

とりあえず脳科学について知られていることをおさらいしてみよう。
角田忠信によると、日本人は鳥の声や虫の鳴き声も言語音として左脳で処理している。

これに対する反論はネット検索結果を紹介するに留めよう。どちらが正しいか判断できる材料を僕は持っていないし、角田忠信の『日本人の脳』も読んでいないのだが、引用URLの方が僕には尤もなように思える。

http://blog.ohtan.net/archives/51282596.html

corvoさんの指摘されたマンガ脳に関する記述部については、もともとの話題の英語と日本語とは直接関係がないのであまり興味がなかった上に、何だか思い込みで書いるような気がして飛ばし読みしていたのだが、確かにcorvoさんが指摘された「画力のあるマンガ家は、話も面白い」という部分はおかしいと思う。

というのは、マンガ家を見て知れることの一つは、「画力のあるマンガ家は、話も面白い」ということだからである。
絵はめちゃめちゃうまいが、話は穴だらけ、とか、ストーリーは抜群だが、デッサンがどうも狂っている・・・というようなマンガ家は(あまり)いない(青木雄二くらいである)。
画力と物語構成力はマンガにおいてはおそらく脳内において並行的に発達している。
大友克洋、鳥山明、井上雄彦・・・ワールドワイドに画風のフォロワーを有しているマンガ家たちは、いずれも創造性あふれる抜群のストーリーテラーである。
これをどうして「変だ」と思わずに来たのか、その方が不思議である。

挙げられているマンガ家は一流といわれる人である。そしてマンガは絵とストーリーからなる。競争の激しいと思われるマンガの世界で生き残りかつ一流と認められるには、絵もストーリーもうまいのは当り前である。鶏と卵のたとえになってしまうのかもしれないが、いやしくもマンガのプロなのであるから、両方ができる才能のある人が生き残ると考えるのが普通ではないかと思う。それが「変だ」と思う方が「変だ」と思う。

一方で原作者が別にいるマンガはよくある。現在、少年ジャンプで連載中の「バクマン」(冒頭の画像-アマゾンより)はそれを題材に取り上げたものであるし、このマンガ自体が絵とストーリーが別の人だ。
絵を描いている小畑健氏のヒット作は「ヒカルの碁」、「デスノート」など原作者は別で自作のストーリーではないが、画力は抜群だと思う。小畑氏がそうだというわけではないが、corvoさんが指摘されていたように、画力があってもストーリーが面白くない人もいるに違いない。

そのように考えると、内田氏は「マンガ脳」のエントリーでは「日本人は特別だ」という結論に導くために都合のよい話を並べているように思えた、ということです。

関連エントリー
- 最後の国境への旅

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2009/01/12

最近読んだ本

最近読んだ中で印象に残った本を記録しておこうと思います。どれも図書館で借りたもの。

41ofbhbchml__ss400_ 仮の水 リービ英雄
リービ英雄の本は図書館で見つければ必ず読んでいる。最近は中国の旅行記が多いようだが、この本も比較的最近、北京オリンピックの前の状況が描かれている(2008.8発刊)。(リービ英雄が育ったのは台湾だが、著作内容は大陸側が多い)。
偶然ながら、「是突然的中国旅行」に行くことになった直前に借りたので、往復の飛行機の中やホテルで読みながら、本の内容を実際の中国で実際に確認したり納得するという奇妙な体験をした。
中国では水には気をつけなければならないが、田舎に行くとボトルに入ったミネラルウォーターでもとんでもない目に会う話とか、高速公路(道路)を夜一人で走るのは危ないことがあるとか、列車で同席した中国人が偽の切符をつかまされた話など。

 内モンゴルから東南へ向かう高速公路の工事現場で働くのだ、月に二千をかせぐ。お金は足りない。
 二千で十分ですよ、私よりずっと多い、と中年女がたしなめるような口調で答えた。
 いや、仕事はきつい、特に冬は辛苦(シンクー)する、だからもうちょっと欲しい。

 「二千」を三万円、と頭で翻訳しながら、かれは中年女の横顔の向こうに流れる赤いレンガの農家の列に見入った、

僕が天津でお昼をご馳走になった、「これはちょっと違うなぁ的日本料理店」では日本語を話すというウェイトレスが3万円、シェフで6万円程度だそうだから、田舎と都会では格差があるようだ。

03225 歴史まみれの韓国-現代両班(ヤンバン)紀行 尹学準(Yoon Hak Jun)
リービ英雄の本は中国の現在をうまく描写していると思っていたが、ひょんなことから中国に出張して実体験をしたことから、ではお隣の韓国はどうなんだろうと興味を持った。
しかしリービ英雄の連想から、日本人が書いた韓国とか韓国人が書いたものの翻訳よりは日本にいる韓国の作家が日本語で書いたようなものが読んでみたいと思い図書館で見つけた本。
儒教、祖先崇拝そして家格の優劣がいかに韓国では重要なものであり、それに起因した争いが絶えなかった歴史、そのために国が滅んだとさえ言われる実態を面白おかしく描写している。狭い海峡を隔てただけなのに、これだけ国民性が違うのかと思う。お隣とは言え日本の常識を単純に当てはめると、とんでもないことになりそうな気がする。
内容がやや偏っているかもしれないが、しかし普段あまり目にしない漢字を使った奥ゆかしい熟語がところどころに出てきてびっくりすると共に、今の日本語の語彙の貧弱さを痛感させられた。(本は返却してしまったので例示できないのが情けない)

41j2z054fjl__ss500_ チェーザレボルジアあるいは優雅なる冷酷 塩野七生
この本で新潮社の「塩野七生ルネサンス著作集 1-7」は読みつくしたことになるんだけど、稲美町立図書館の蔵書を見ると氏の本はまだまだあるようだ。特に「ローマ人の物語」は15巻もあり当分はお楽しみにとっておこう。

スペイン出身のローマ法王を父に持つチェーザレの一生。枢機卿に一旦はなったものの、その職を捨ててイタリア統一を目指す。当時としては飛びぬけて権謀術策に長け、冷徹な論理と合理性で父の権力と資金をバックアップに国を作り上げていくが、道半ばで挫折し31歳で壮絶に散った人生。ちなみにチェーザレはラテン語のカエサル(シーザー)のイタリア語読みであり、彼自身もシーザーの後継者であることを念じていたという。

チェーザレが勢力を拡大しつつあるときに関わった人物の中でも特に目を引くのが、フィレンツェの特使として長期間チェーザレの元に派遣されたニコロ・マキャヴェッリと、軍事顧問となったレオナルド・ダ・ビンチである。ルネサンスという時代が芸術だけでなく様々な面で時代の転換期であったことが分かる。マキャヴェッリはチェーザレから多くを学び、「君主論」の中でチェーザレを理想の君主としているそうだ。

この本を読んでいると織田信長を彷彿とさせるが、ネット検索すると同じことを考える人は多いようなのでこの話題はやめておこう。

当時イタリアは多くの小国に分かれており、統一国家を作るという概念はなかったが、それを最初に口にしたのがチェーザレであり、その言葉を聞いたのがマキャヴェッリである。

 しかし、イタリアの統一は、チェーザレにとっては使命感からくる悲願ではない。あくまでも彼にとっては、野望である。チェーザレは、使命感などという、弱者にとっての武器、というより拠りどころを必要としない男であった。マキャヴェッリの理想は、チェーザレのこの野望と一致したのである。人々がやたらと口にする使命感を、人間の本性に向けられた鋭い現実的直視から信じかなったマキャヴェッリは、使命感よりもいっそう信頼できるものとして、人間の野望を信じたのである。

本作のタイトルは、塩野の高校同期であった庄司薫に相談して決めたそうだ。当時、庄司薫は「赤頭巾ちゃんシリーズ」で売れっ子作家、一方の塩野はデビュー作「ルネサンスの女たち」が何とか重版という状況だったというが、その後、庄司は赤頭巾一発で中村紘子の旦那さんという以外は忘れ去られたような存在であるのに比べ、塩野は執筆を続けて多くの著作をものにしているのを見ると、本人たちがどう考えているかは知らないが、読者としては人生は分からないものだという典型のように思える。もっとも中村紘子の随筆は実は庄司薫が書いているという噂もあるらしい。

関連エントリー
- 是突然的中国旅行-1
- 是突然的中国旅行-2
- 最後の国境への旅 

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2009/01/11

最後の国境への旅

*本記事は他所で2007年8月に書いたものを移動してきたものです。

51snja6g1zl__ss500_ 「最後の国境への旅」を著したリービ英雄については、もう20年くらい前か、雑誌か何かに四畳半に住んで日本語で小説を書く(変わった)アメリカ人として紹介されていたのを見て、頭の片隅にはずっと残っていた。

しかし実際に彼の本を読もうとまでは思わず、そのままになっていたのだが、二年余り前のNHK教育の「日本語なるほど塾」で出演していたのを見て、また関心を持つようになった。そのときのことは以前に書いている

それ以来、彼の本を読んでみようという気はあったものの、相変わらず読む機会はがないままになっていたのだが、先月(2007年7月)、いつも本を借りている稲美町の図書館で偶然見つけて読んだのがこの本だ。

さて、何の予備知識もなくこの本を日本人が読んだとしたら、一体誰がアメリカ国籍の白人が著者だと思うだろう。そのくらいにすばらしい、そして読みやすい日本語で書かれている。

アメリカ人が日本語の小説を書くということについて、日本人が英語の小説を書くよりももっと、相当に珍しいことだろうとは思うものの、自分が英語をマスターしたいとずっと思っていたこともあって、逆に日本語をマスターしようと考えたり、日本語で文章を書こうとする外国人がいてもおかしくはないだろうし、そこらの日本人よりずっとよい日本語を使える外国人がいてもおかしくはないだろう、というのが最初に書いたリービ英雄の紹介記事を読んだ時から思っていたことだ。

英語を学んでいたり、仕事にしている人の中には、日本人の英語はどう転んでもネイティブスピーカーにはかなわないと考えている人が結構いる。これは英語関係のMLやら昔のパソ通の英会話フォーラムで、相当に英語に堪能な日本人がそういっていたことなのだが、僕はそうは思わない。

確かに会話ではそれはある程度真実かもしれないが、書き言葉となると話は別だろう。大体が、日本人でもまともな日本語で文章が書けない輩をたくさん見てきた。彼らは単に日本語ネイティブという以上には日本語が上手とは思えない。

むしろ日本語を言葉として学んだ外国人のほうがずっと正しい(という言い方がよいのかは別にして)日本語を知っている可能性が高いと思うのだ。

殊に日本語は難しい言葉で、外国人がマスターするのは非常に難しいかほとんど不可能と思っている日本人は多いのではないかと思うが、実際の話、リービ英雄の小説ほどの日本語をきちんと書ける日本人がどれだけいるといえるのだろうか。

逆に言えば、英語を学んだ日本人の方が正しい英語を知っていることだってあるわけだ。実際に英語関係の学者なら日本人でもすばらしい英語ができる人は結構いるだろう。それは話せるという意味ではないかもしれないが、正しい英語、あるいはきれいな英語が書けるという意味での話だ。

以前、英語関係のMLにしばらく出入りしたことがあり、ネイティブの参加者のコメントを何度も読んだが、スペルのいい加減さにはあきれることが多かったし、文法的には正しいとは思えない文章もあった。ただ文法問題については、話し言葉は生きた言葉であり、文法通りにすればいいというものではないことは分かっている。自分が日頃話している日本語だって、、文法もへったくれもない、非常に感覚的なものだというのは確かだ。

だが、そうした話し言葉は別にして、書き言葉となると、やはりきちんとした言葉としての文章になっていないネイティブの文章は、英語でも日本語でも実に多いのは事実だろう。

さてはて、本題のリービ英雄の「最後の国境への旅」を書くつもりがちょっとわき道にそれてしまった。

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- 言の葉に力の宿る

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2009/01/04

温泉めぐり-有馬・・・無駄にゴージャズ-3

温泉めぐり-有馬 その3

Dscf2348 翌日の朝食はまた別の部屋でいただく。右から伸びているのは、またしても娘の手。

Dscf2349_2 朝食としては豪華。いつもはこんなに食べないのだが、ついつい食が進む。

朝食後、今度は一人で岩風呂に入りに行く。一人で気楽に湯につかる。岩風呂といってもそれほどのものではなかった。

チェックアウトは11時と遅めなので、朝風呂の後は読み残した「もやしもん」をまたベッドで寝転んで読もうと思ったら、隣のベッドに息子が寝ている。和室の布団が片付けられてしまったからだそうだ。

Dscf2351 ベッドの横は大きな窓になっていて、この部屋専用の庭が見える。そう、専用庭がついているのです。ここに見えている壁の向こう側が和室になっており、反対側にはバスルームがある。

Dscf2354 右の写真は和室から見た庭。本来はこの和室に小さなバス、トイレがついただけの三人部屋に泊まる予定だったのが、ベッドルームに豪華バスルーム付きになったのであるのであるのであったのだった。

温泉のあるホテルでも部屋にバスルームがあるのはよく見るが、普通はユニットバスがある程度だと思うがここは随分と広い。これが今回の「無駄にゴージャス」の極め付けではないかと思う。

Dscf2352_3 右の写真の右手前に洗面がある。写っていないがシンクが二つ並んでいるので、二人並んで顔を洗ったり歯を磨いたりできる。

Dscf2353 その奥がバスルームだが、見ての通り、大きく豪華なバスタブの周囲はガラス張りで庭がよく見える、というか、もしここで入浴すれば、庭からも丸見えだ。ただしお湯は温泉ではなく、普通の水道水。部屋の風呂に入る人もいるかもしれないが、ここまで豪華にする必要性があるのかどうか。

そしてバスルームのガラス張りドア(右側)から庭に出ることが出来る。庭は周囲がちょっとした崖のようになっていてその上に柵もあるから、裸で庭をうろついても家族に見られるくらいという・・・、もちろん、我が家では誰もこのお風呂には入らなかったけどね。

Dscf2355 さて、11時前になったのでロビーに行きチェックアウトを済ませる。

Dscf2356 ロビーからの眺めはなかなかとよい。

 

Dscf2357 年始の飾り付けをしているのだろうか。ロビーの壁には日本画タイプの大きな絵がいくつか掛けてあったが、一部が剥落したりしていて状態がよくないが・・・、なんてことがつい気になる。

Dscf2358 ホテルの玄関先には、何だかよく分からないけど石造が置いてあった。

ということで、2008年の最後の温泉、無駄にゴージャスだがバリアフリー・フリーというか、年寄りには優しくない有馬の某ホテルでのひと時でした。

キャンセル待ちのおかげで残り物に福、ゴージャスな気分は、エコノミーで予約した飛行機が満席でビジネスクラスに押し出されたときの気分と同じ、みたいな、違うかぁ!

Moyasimon こちらは帰宅後に造った、ナノブロックのオリゼーと本をヴィブラホンの上に置いたところ。見えている楽譜は最近練習しているアルペジオ。マレット運びを教本の指示通りにはせず、ちょっと工夫している。

僕は子供が小さい頃にレゴで一緒によく遊んだので、ブロックの説明書から部品と位置を読み取るのは慣れているが、初めての人にはかなり難しいんではないかと思いました。

-おしまい-

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2009/01/03

温泉めぐり-有馬・・・無駄にゴージャズ-2

温泉めぐり-有馬 その2

買い物を終えてホテルに帰ると、ちょうど食事の時間。無駄に広い部屋でみんな一緒に夕食と思っていたら、一つ置いて隣の部屋でお願いしますという。明日の朝食もこの部屋で、とのことだから結局、三部屋を使っての宿泊ということになる。実に無駄にゴージャス、ただし料金は予約通り二部屋分しか払わないよ。

Menu 夕食はまずまず豪華、ただし僕は特にグルメではないので珍しく撮った料理の写真を羅列するだけにします。興味のある方は左のお品書きをご覧ください。

Dscf2336 まずは、前菜、椀物、造里(鯛のお造り、カルパッチョ風)、焼き物(牛肉など)、合肴(鰆酒塩煮など←サワラと読むのだね)、それに食前酒の梅酒。

これだけでも結構、お腹は一杯になるが、ゆっくり時間をかけてお召し上がりくださいということなのか忙しいためか、次の膳まではしばらく時間が空いたのでちょっと余裕が出てくる。

Dscf2337 これは少し食べてしまってからでみっともないけど、温物の徳利蒸し。器が徳利型をしていたけれど、蓋は仲居さんが持っていってしまったのでこの写真では分からない。中身は播州饂飩に野菜の天麩羅が入っている。饂飩は「うどん」と読むのだなぁ、難しい字だ。

Dscf2339 次いで料理はこれで最後、右が蓋物(海老芋饅頭、その他)、左が強肴(しいざかな)のすっぽん仕立て、伝助鍋。すっぽん仕立てというのは、すっぽんが入っているわけではなくて、ネギと生姜汁の椀のこと、伝助鍋は穴子の料理だそうだ。ネットで調べると勉強になるが、どうせすぐ忘れるのだ。

Dscf2341 後は左から、止椀のお吸い物、漬物にご飯、そして右端のデザートの抹茶のプリンに向かって上からは娘、右からは家内の手が伸びているが、特に意味はない。

Dscf2343 以上のお食事をゆっくりと終えて部屋に戻ると、和室に3人分の布団が敷いてある。ベッドルームもあるが、和室で3人寝てもよいという意味らしい。別室にはお子達二人分の布団も既に敷いてあった。

ということで、いよいよ風呂に行くが風呂の写真はないです。

事前視察で岩風呂は階段を降りないといけないので階段のない八角堂のお風呂に向かう。しかし前回に書いたとおり、部屋からエレベーターに行くまでに階段を上らなければならないのに、手摺がない。だから義父の手を引きながら何とか階段を上ってエレベーターまで行くが、その間にある通路も義父にすれば長いしスロープになっている。おまけにここでも手摺がないので、気をつけながらゆっくりゆっくり進む。

エレベーターで地階に降りた後も少し歩いて、さらにエレベーターで降りるとやっと八角堂の入り口に着く。

お風呂でも年寄りだから目を離さないようにしながら湯につかったり体をあらったりするが、これはどこの風呂でも同じで仕方がない。

まぁ、何とか温泉気分に浸ったところでまた同じ道をゆっくりゆっくり帰る。帰りはスロープがゆるやかながら上り坂になるので、これもしんどいようだ。

かくのごとく、年寄り同伴はスローテンポで気が抜けないが、ホテルはせめて歩きやすいような配慮はしなければならない。ゴージャスな部屋に泊まれたのはよかったけれど、このホテルは年寄りには向いていないことは間違いない!

やっと部屋に帰ると、義父は往復の疲れと湯に使ってほかほかしたためか、すぐに寝入ってしまった。

Dscf2345 しばらくすると家内は娘とまた温泉につかりに行くという。彼女たちは大分早い目に上がっていた、というか僕らが遅かったのだけれど、そこで僕は読書でも、ということで和室の電灯を消してベッドルームに移動する。

Moyasimon7 取り出したのがアマゾンからちょうど届いたばかりの「もやしもん7巻限定版」。さすがに山の中のホテル、とても静かで落ち着く。しかしベッドで寝転びながら読んでいるうちに、結局、半分くらい読んだ辺りで寝入ってしまった。

-続く-

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2009/01/01

あけおめ、ことよろ

元旦、賀正、初春、迎春、謹賀新年、恭賀新年、あけましておめでとうございます、新年おめでとうございます、謹んで新年のお慶びを申し上げます、Happy New Year、(A) Happy New Year to you、Wish you a happy and prosperous new year、With all good wishes for the new year、Felice Anno Nuovo、Tanti Auguri、・・・もういいか。

みなさま、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいします。

Nenga2009 今年も我が家の年賀状は、娘のデザインです。ティム・バートンが好きというだけあって、少々エキセントリックなデザイン、よく分かりませんが、苣(チシャ)の葉にくるまれケチャップをかけられて食べられる牛の図だそうです。

例年、大晦日から元旦にかけては近所のお寺に、除夜の鐘突きと善哉やお屠蘇、うどんなどをご馳走になりに行くのですが、今回は出遅れて年が明けてしまい、ご馳走は逃しましたが、鐘突きと初詣をしてきました。

200901010050000 本堂に入ってのお参り、懐かしい火鉢があったので撮ってきました。子供の頃は隙間風のある長屋で火鉢しかなかったことを思い出しました。

あの頃は冬は火鉢、夏は冷房なしで平気で生活していたのに、今はとても出来ません。きっと体温調整が機能しなくなってるんでしょうね。

世間は100年に一度という不景気とか厳しい冬ですが、
どうかみまさまにとってよい年でありますように。

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