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2010/07/20

フランダースの光

順序が逆だが3連休初日の土曜日は、某所から招待券を入手した「フランダースの光 ベルギーの美しき村を描いて」を観るために姫路市立美術館まで行ってきた。

H2_2 姫路の美術館には何度も行っているが、煉瓦作りのシックな建物が素敵だ。

この3連休はとにかく天気がよくて、草木の緑、空の青、雲の白のコントラストがこれほど強烈に感じられるのは久しぶりのような気がする。そんなときの田舎道のドライブはまた格別だ。

フランダースの光 ベルギーの美しき村を描いて

19世紀の半ば、風景や農村の情景を主題とし、戸外で制作するという新しい志向を持った画家たちは、都市の喧騒を離れて自然の中へと移り住み、ヨーロッパ各地に芸術家村(コロニー)を生み出しました。
ベルギーでは、ゲント市にほど近いシント・マルテンス・ラーテムと呼ばれるのどかな村に、ゲントをはじめフランダース(ベルギー北部地域)各地の芸術家たちが移り住み、質の高い独自の芸術活動を展開しました。(美術館サイト解説抜粋)

19世紀末から20世紀初頭にかけての作品約90点が展示され、かなり見応えはある。初期はバルビゾン派のような写実的田園風景から、やがて印象派となり、最後はキュビズムなどの影響を受けデフォルメされた表現と、おおまかには3段階に分かれている。

こうした先入観で観たわけではないが、どうしてもフランス絵画の影響下にある二番煎じのような印象がついてまわったのは否めない。特に印象派の後半、点描的な作品群は中途半端な気がした。その中で、画像のあった作品を紹介しよう(画像はG-Callから)。

B1 アルベイン・ヴァン・デン・アベール「春の緑」(1900)は、細かな写実的描写が素晴らしいが、作家はもともと画家ではなく周囲の画家友達の影響を受けて40代から描き始めたそうだ。遅咲きの画家は結構いるのだね。

B3 僕が特に気に入ったのは、ヴァン・ド・ウーステイヌの「春」(1910)だ。ブリューゲルのような田舎の人々の情景が、アンリ・ルソーのようにデフォルメされてコミカルで面白い。木が白いのは、虫除けに石灰が塗ってあるからだそうだ。

B4 クラウスの「刈草干し」(1896)は典型的な印象派表現だが、光の輝きが素晴らしい。

B2 ヴァレリウス・ド・サードレール「フランダースの農家」(1914)は印象派とは違った写実のようではあるものの、キリコを思い出してしまった。ほぼ同時代であり、何らかの関連はありそうだ。

B6 フリッツ・ヴァン・デン・ベルグ「日曜日の午後」(1924)はキュビズム等のコーナーにあったが、こんなにきれいな色彩ではなく、もっとくすんだ色だった。画像は色修正されているのかもしれない。

面白かったのは、会場に至る通路にピカソの「ヘレナ・ルビンスタインの肖像」と題したスケッチ(デッサン)が10点ほど無料展示されていたことだ。写実的なスケッチから徐々にピカソ独特のデフォルメがなされ、中にはのっぺらぼうのような輪郭だけの顔もあったりで、実際に段階的にデフォルメされたのかどうかは分からないが、過程が分かるようで楽しい。

姫路市はベルギーのシャルロア市と姉妹都市提携をしている関係から、この企画も招致したのではないかと思う。大都市と違って、人がそれほど多くなく、ゆったりと楽しめるのがよかった。

H1 外に出ると、姫路城が平成の大修理で鉄骨やらクレーンに取り囲まれていた。

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2010/07/18

すべてのTACOはinsightfulである

3連休の中日、金曜からはすっかり夏らしい空が広がっているが、意外と湿気がないのと、異常気象のせいかどうか風があるので、木陰にいると暑くても気持ちがよい。

今朝は家内が農協で買い物をしている間、近くの緑陰で村上龍のエッセイ集「すべての男は消耗品である」を読んでいた。

Ex この本は全部で何冊でているのか、図書館でVol.4、5、6と同系列の「ハバナ・モード」は借りて読んだのだが、Vol.1、2、3が何故か図書館になかった。しかし最近、近所の古本屋Book1に立ち寄ってみたら、偶然にしては出来過ぎなくらいに、Vol.1、2、3が置いてあって、単行本だけれどすべて税込\105だったので迷わず買い込んだ。一緒に、以前から読みたかったが図書館では貸出中ばかりだった「KYOKO」と「五分後の世界」も\105で購入した。KYOKOだけが文庫本であとはみな単行本だ。いずれも村上龍の作品だ。

¥105×5冊なのだが、結局\500しか請求されず、おまけに\50の金券をもらったので、一冊\90で買ったことになる。

村上春樹の本も探したのだが、ブームなのか既に読んだ本が二冊あっただけだった。ブームというのは大したものだ。

「すべての男は消耗品である」は過激な言葉や極論や偏見となりかねない論調にあふれているが、なかなかとinsightfulである。

insightfulという単語は、辞書では「洞察に満ちた」という意味である。insightとかinsightfulは仕事で時々チェックをする取引先の英文技術資料によく出てくるのだが、訳が難しい。

「村上龍の『すべての男は消耗品である』という本はなかなかと洞察に満ちている」などという日本語は日常ではまず使わない。多分、会話ならば「考えさせられる」とか「面白い」というような言葉で終わってしまうだろうが、洞察という意味は出てこない。

「目からウロコが落ちる」という表現もあるが、パソコン通信時代から現在までネットで使われ過ぎて陳腐化しているので、使う気になれない。

Mo 「洞察」は広辞苑では「よく見通すこと、見抜くこと」とあるが、上記の例でそのまま置き換えると変だ。言葉は難しい。

しかし村上龍の本は一休みして、やっと購入した「もやしもん 9」を読まねばならない・・・プレミアム版もあったようだが手遅れだった。

A1 唐突だが、ここに写っているのは明石市のTACOバスだ。大阪などでも最近走っている\100均一市内バスだが、画像では分かりにくいが明石名物のタコの絵が描いてあって、綴りがTACOというのがよい。insightfulである・・・ということで、意味不明、無理矢理のタイトルこじつけでした。

 

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2010/07/11

Korean Peninsula would be so nice to...

小説「半島を出よ/村上龍」の下巻で、"You'd be so nice to come home to"のレコード(LP)がかかる場面があるのだが、常訳というか誤訳といわれる「帰ってくれたらうれしい」(本は図書館に返してしまったので、多少は違っていたかもしれない)という日本語を村上氏は充てている。

確か「恋はいつも未知なもの/村上龍」の中でも「帰ってくれたらうれしいわ」というタイトルになっていて、大橋巨泉氏があとがきで「あれは私の誤訳」と書いていたように記憶するので、村上氏もわかって書いているのだと思う。このタイトルが日本では常訳になってしまっているからそのまま使っているということだろう。

もうひとつ、ビルエバンストリオのLP(この場面のバーではCDではなくLPしかかけないということになっていたはず)がかかるのだが、"Someday My Prince Will Come"からやがて"My Foolish Heart"になって、スコットラファロのベースがどうとかいう描写があるのだが、そういうLPはないはずだ。途中でマスターがLPを変えたという可能性もあるが、文章からはそうは見えない・・・雰囲気としての村上氏の選曲ということだろう。

というようなことはどうでもいいツッコミだけれど、「半島を出よ」は少々長いのと、下巻がハリウッドのアクション映画のようになる辺りから上巻の緊迫感や恐怖感が薄れていくのが少々物足りないけれど、面白かった。

映画化の動きがあったらしいが、コケたのかどうなったのか不明だな、と思いつつ検索していたら、実は「宣戦布告」という映画が小説よりも3年前に撮られていて、内容が類似しているので、「半島を出よ」はそのパクリなのかインスパイアされたのか、という記事を見つけた。この映画を一度見てみたい。

燃えよ!映画論
宣戦布告 小説「半島を出よ」がパクった?

映画は、北朝鮮のゲリラが日本海の島に潜伏したら、という内容ということだけれど、小説にもどこかの小さな島を占拠すれば簡単に日本政府は落とせるというような文が出てくる。村上氏は相当に綿密な調査をしているので、この映画も参考にしているだろうと思う。

ところでずっと以前に書いた"You'd be so nice to come home to"の記事はこのアクセスの少ない僕のBlogでは、トップページの一見さんを除けば、常にトップのアクセス数を維持している。未だにこの歌のタイトルに疑問や興味を持つ人が多いということだろう。

関連エントリー
- You'd Be So Nice To Come Home To
- So Nice to Come Home To
- Don't Explain

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風の歌を聴き直したら

「風の歌を聴け」は、Blogで話題にしようと貸し出し延長をしていて、図書館には今日返しに行くところなのでまだ手元にある。

通勤電車の中で読み直してみたら、ずいぶんといい加減に読んでいたことに気がついた。

いい加減といわずとも、神戸を中心にした物語という先入観で読んでいたのが間違いのもとだった。

村上氏が住んでいたのが阪神芦屋の近くだということを今頃になって知ったのだが、偶然ながら先月、阪神芦屋から芦屋市立美術博物館まで歩いた道が、まさに小説の中のワンシーンだったわけだ。それから、途中でみたテニスコートは読み返してみれば、女の子が二人いると書かれているだけで、金持ちとは書いていない。つまりは、そいういうことだ、ははは・・・。

阪神芦屋駅辺りをベースに動き回っていると考えると、イメージが少し変わってくる。でもアメリカの小説のような印象は同じだけれど。

映画の予告編があったが、しかし時代を感じさせる。当時はこんなもんだったのか。小説とはだいぶ雰囲気が違らしいし、何だか見ようという気力が失せてしまう。でも見る価値はあるらしいから悩ましいところだ。リンク先にYouTubeの予告編もあります。

mm(ミリメートル)
フリーライター前原政之の感想日記(本・映画・音楽・マンガetc.)と日常雑記

続けて読んだ本はどちらも村上龍:

ラブ&ポップ
KYOKO

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2010/07/04

「風の歌を聴け」を読んで

このところ、村上春樹、村上龍、両氏の本を続けて読んでいる。W村上などというらしいと最近知った。

村上龍
 悪魔のパス 天使のゴール
 半島を出よ (上、下)
 わたしは甘えているのでしょうか? 27歳・OL

村上春樹
 風の歌を聴け
 走ることについて語るときに僕の語ること
 螢・納屋を焼く・その他の短編(以前に読んだ短編集とほどんどダブっていた)

それ以外にも色々読んではいるが、ラリー・ニーブンの「リングワールドの子供たち」は相変わらず摩訶不思議で雄大な世界で、日本語で読んでもよく分からないところがあるが、やっぱり面白い。

今日の話題は、「風の歌を聴け」 村上春樹

村上春樹処女作は図書館でいつも貸し出し中で、なかなか読むことができなかったのが、やっと借りることが出来たのだけれど、何だかぴんとこなかった。だからというわけではないが、内容よりも背景、風景について書いてみる。

1970年の夏の話というから僕が高校のときなわけだが、作者の作品からいつも受ける印象通り、日本が舞台という感じが希薄で、ましてや僕が高校生でウロウロしていたときと同時期という感覚がほとんどわかなかった。そうした予想と違う雰囲気が、ぴんとこなかった主な理由だと思う。

映画化されたというのも知らなかったのだけれど、ネットを検索すると小説や映画の舞台を歩くという情報があちこちにあるのだから、きっと芦屋から神戸が舞台に違いないのだけれど。

女の子がレコードを売っていたのが映画では元町のヤマハらしいけれど、それも全然雰囲気が合う気がしない。ヤマハは楽器店で比較的大きくてきれいな店だ。

翌日の朝、僕はその真新しいチクチクするTシャツを着てしばらく港の辺りをあてもなく散歩してから、目についた小さなレコード店のドアを開けた。

レコードを売っている店というと、他にも元町商店街入り口には国際楽器があったし、三宮センター街にはジャズや輸入盤が充実したAOIというレコード専門店もあった。それ以外にも数件あったはずだ。何しろ当時はお金があれば三宮から元町のレコード店をぐるぐると回っていたのだから確かだが、AOIにはドアはなかった。

そうだ、ドアがある小さなレコード店というと、センター街の裏通りにあった「ワルツ堂」ではないのかな。ここはジャズとクラシックが中心だったはずだ・・・でもそうすると、ビーチボーイズなんて置いてなかったかもしれない。

ワルツ堂は大阪に本店があるレコード店だが、神戸の店は小さくて古い木製の硝子戸を開けて入る、暗くて怪しげな店だった。ワルツ堂はその後閉店し大阪の店も倒産したらしいが、Walty堂島として復活しているらしい。

僕のお気に入りはAOIで、高校から大学、勤めだしたころまで結構足しげく通って、店のお兄さんとも顔なじみになったので、ECM(トリオレコード)のサンプルLP(Conference of the Birds/Dave Hooland 邦題「鳩首会議」というのがおかしかった)をもらったり、ヴィブラフォンのLPをよく買ったので、これはどうですかとわざわざ珍しいLPを取り寄せて紹介してくれたこともある。一時期はジャズ中心の支店が三宮駅前にあった。

AOIで最後に買ったのは、ECM原盤の「In Concert, Zürich, October 28, 1979/Chick Corea & Gary Burton」だった。その頃にはジャズよりもロック系にシフトしていて、その後は通うことはなくなった、っていっても発売された1980年に結婚して大阪に引っ越したから仕方がない。AOIレコードは今でもセンタープラザ内にあるみたいだ。

小説に戻ると、先月、暑い中を歩いた芦屋川沿いは何となく雰囲気がわかる。あのあたりはゴミゴミした感じがあまりないし、海が近い。あちこちに建つマンションも当時はなかったはずだ。

川沿いにあったテニスコートが小説に出てきたものだというウワサだが、まぁ、そうなのか。今はあんまり金持ちがテニスしているような雰囲気はないが、当時はもっと違ったのかもしれない。今は何となく街全体が裏さびれた感じがしていた。

ビーチボーイズの"California Girls"がキーとなる歌として出てくるが、その歌の雰囲気のように、日本のごちゃごちゃした都会よりもアメリカ西海岸のどこかの港街のように感じる・・・といってもサンフランシスコしか知らないが、アメリカの現代文学が村上氏のベースになっているということだろう。

これまたネットで読んだのだけれど、庄司薫の影響だとかいう話があるのだが、それは違うだろうと思う。読んでいて浮かんだのは、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だ。むしろそうしたアメリカ文学の影響がもろに出ているのだと思う。だいたいが、庄司薫の「赤ずきんちゃん」自体がサリンジャーのパクリだという人も多いくらいだから、共通項があるということは確かだろうけど、まぁ、どうなんだろう。

「走ることについて語るときに僕の語ること」の中でも、この本について記した件があるが、小説としての完成度は満足できるものではないのだそうだ。

・・・基本的には、書くという行為を楽しむために書いた作品であって、出来そのものには自分でももうひとつ納得できないところがあった。

それで新人賞をとってあっという間にファンがついて、世界の村上になってしまうのだな。

先にも書いたけれど、村上氏の作品は空間に広がりがあって、というよりアメリカのようなスカスカした空間が感じられて、あまり日本的ではないというのが僕のとらえ方で、とにかく1970年当時の神戸は僕の記憶の中ではこの本のようではなく、もっと汚らしくてごちゃごちゃしてせせこましくて保守的だったのだ。あえていえば、神戸よりは村上氏の住んでいた芦屋の方が近いのではないかと思う。

YWCAの描写が出てくるが、これもいかにもNYCにでもありそうな描写ではなかろうか、と勝手に思っている。僕の実家(当時)から坂を下りて西灘(現在は王子公園駅)に行く途中にYWCAがあった。それはYWCA分室らしいけれど、小説の方は生田川の方なのかな?

とにかく、小説の舞台を今の神戸で考えると全然違うのは確かで、動物園だってもっと小さかったし、海の方へ行けば神戸製鋼所などの工場地帯に突き当たって薄汚れた海しかないし、山から海を見ればスモッグで大阪方面なんかは全然見えないし、というのが実態だったのだ。ずいぶんと変わったものだと思う。

まぁ、フィクションの舞台をあれこれと詮索しても仕方がないが、あそこかな、などと想像してみるのも楽しいものではあります。

またW村上については書いてみたいと思うが、今日はここまで。

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2010/07/03

Composition

美術関連のトピックが続いたのは、たまたま美術館、美術展に行く機会が続いているだけなのだが、偶然は重なるものか、先日は島根県の足立美術館を訪れることができた。

その話はまたの機会にしたいが、一方で文体がかたくなっているのは、たまに覗いている「てつりう美術随想録」の影響かもしれない。

人におもねらない真摯な文章を読んでいると、自分の書いてきたものが何だか浅薄なものに感じられてきてしまう。

いつもBlogだからと、軽い文章にしてしまいがちなのだが、ぼく自身は実は軽妙な文体は苦手だ。だから、あちらこちらの、といっても限られるが、よく読んでいるBlogなどの文体を真似てみたりしていたのだが、真似は所詮、真似にしかならない。何だか違和感を感じながら書いていた面は否めない。

だから、改めてそのような軽さをなるべく排除しようとしてぎごちない文章になってしまっている。しかし、軽妙な親しみやすい文体というのも魅力的で、村上春樹のエッセイなんかのように書けたら素敵だろうが、残念ながらそうはいかないし、形だけまねても仕方がない。

まぁ、未完成なまま試行錯誤して下手な文章を書いているうちは、成長の余地があるのだと前向きに考えよう。

というような話は別にして、相変わらずヴィブラフォン練習は細々と続けているのだが、ギター練習が芳しくない。

ヴィブラフォンは移動しない限り、「どうぞお弾きください」とばかりデンとかまえていてとっつきやすいのだが、ギターは重いケースを隅っこから引っ張り出してフタを開け、ギターを取り出して・・・、という簡単な手順でさえ面倒なところがある。

しかし、たったそれだけではない。どうもヴィブラフォンの方が健康的な気がする。

立ったままで、両手にマレットを持ちバチバチと鍵盤を引っぱたく運動はあまり体に無理がないし、比較的左右対称の動きだ。

それに対しギターは左右非対称でどうも体がねじれるし、左手はこわばるし、肩にすぐ力が入ってしまうし、何となく健康的にはあまり勧められないのではないか。もちろん本当は、ぼくの姿勢が悪いのが原因だろうという指摘が妥当ではないかということは先刻承知なのだが、現状はそうなのだから仕方がない。

それにギターはどうしてもこれくらいは弾けるはずだという気持ちが強い割には全然弾けないというのも、モチベーションが上がらない原因だろう。ヴィブラフォンでは、むしろ全然弾けないだろうという前提で練習してきたので続けられたのだと思う。何だかおかしな話なのかもしれないが。

そんな中、たまに思いついたというか、適当にメロディーを弾いては備忘録的に録音することも続けているので、久しぶりにアップすることにした。

これは先月の初めに録音したもの。タイトルはないのだけれど、そのうちにきちんとまとめて曲に仕上げたいと思っている・・・思っているだけで終わりそうだから、とりあえずアップしておこう。

「100613_00m.mp3」をダウンロード

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