青柿
山口華楊の青柿という絵を見に、昨日、京都国立近代美術館まで行ってきた。
この絵だけを見るためだけというわけでは、もちろんないのだけれど、この絵はまだ結婚する前に家内(当時は家内ではないわけだが)に誘われて大阪の美術館まで見に行った展覧会で展示されていた作品だ。
当時はそれほど絵に関心があるわけではなかったので、その展覧会もそれほど面白いとも思わず、全くといっていいほど展示作品は覚えていないのだが、この青柿だけはなぜか印象に残っていた。
10月に高橋由一展を同じ近代美術館で見た時、各種展覧会案内の中に山口華楊展のパンフレットもあり、その裏にこの青柿の絵があって改めて思い出したのだった。
今回の展示での表示を見ると、1978年日展出展作品とある。そういえば日展だったような覚えがあるし、年代もちょうど合うので、最初に見たのがこの作品の発表された時ということになる。
多分、天王寺公園内にある大阪市立美術館だったと思うが、今のきれいな公園になるずっと以前、公園内には多くのホームレス(当時は浮浪者といっていたように思う)が住み着き、美術館自体も改装前のあまりぱっとしない状態だったと思う。
その代わりといってはなんだけれど、近年の美術館のように薄暗い照明ではなくて、外光が入る明るい展示室だったように思う。だからこの作品も明るい光の下で見たように記憶するが、今回は今風な薄暗い照明で少々残念な気がする。まぁ、仕方がないが。
このところ、還暦高校同窓会とか、高校のクラスメートの演劇鑑賞とか、なんだか昔なつかしが続いているが、大学を卒業し就職した年に家内と出会い、そして一緒に見た絵にこの年になって再会してまた家内と一緒に見るというのも、偶然とはいえおかしなものだと思った。
山口華楊についてといえば、いわゆる花鳥風月という日本画の伝統を受け継いでいるのだろうが、華やかさとは少々違うし、また橋本関雪に見られるような鋭く迫るような厳しさとも無縁の絵である。
あるいは多くの洋画にみられるような迫真性とかも見られない。ただ描写が非常に緻密で正確なのは確かだが何かがちがう。
最初はそれがなにかよくわからず、もう一つ絵との距離がうまく取れなかったが、猿が3匹だったか描かれている絵をみたときに気がついたのが、こちらの世界ではない、あちらの世界から見られているという視点だった。
何だか変な表現かもしれないが、いずれの絵も素晴らしく描写されていながら、目の前に迫ってくる感覚がほとんどない。まるで別の次元で時間を切り取って画面に固定しまったような静止感とでもいえばいいだろうか。
動的なポーズの動物が描かれていても、動いている感じがしない。しかし動きがない絵というのとは違う。例えば写真で撮ればその一瞬の動きをつかむことができるだろうが、それは静止ではなくて動の一瞬をとらえたことになるのだろう。しかし、山口華楊の絵はそうした動の一瞬を捉えたものではなく、かといって動きのない絵というわけでもない、時間を止めたような感覚を起こさせる絵だった。同じ感覚は家内も感じたということだから、僕だけのものではなさそうだ。
併催の日本の映画ポスター芸術展は、これも昔懐かしの気分を堪能した。そういえば昔は映画ポスターが普通に街中に貼られていたが、今はこうした手描きの絵のポスターは見ることがないと思う。今の印刷ではない、生き生きと描かれた役者たちの姿は印刷では得られないものだと思う。
最近は文化づいているというか、京都には高橋由一展とヴェネツィア展、大阪にはウクライナの至宝(スキタイ)展、神戸にはマウリッツハイス美術館展と、よく展覧会に来ている。
本当は昨日は加古川の「スカーレットの小鳥」にヴィブラフォンを担いでセッション参加するはずだったのだけれど、なんやかやと予定がずれて山口華楊展は今日で終了のために、最終日ではない昨日のうちにと京都まででかけたので、セッション参加は次の機会にとなってしまった。
| 固定リンク
コメント