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2013/02/11

浅間山荘の遠い夏

図書館で借りたパハーレスの「キャンバス」が結構面白かったので、それより面白いという評判らしい「螺旋」を借りようと思って目に入った本が、アニカ・トールの「私の中の遠い夏」(菱木晃子翻訳)だった。

Annika

タイトルがなんとも思わせぶりな上に、以前読んだカズオ・イシグロの「女たちの遠い夏」を連想させたこと、そして作家がスウェーデン人女性というところに興味をもったので借りてみた。

1970年代の若者であった主人公マーリエが、30年後に過去を振り返る、というような表紙裏にあった紹介から、自分の世代に近い話らしいということも興味をもったきっかけである。

1950年生まれという著者と同年代の女性が主人公、適齢期に結婚し子供が二人、その二人ももう独立して50代半ばになったところで、過去に愛した人の死を知って、心が現在と過去の間を揺れ動くという、いってみれば恋愛の追憶がベースになっているが、同時に1970年前後の若者の理想とした社会像と現在の現実社会との乖離というものも見え隠れする。

だから読む世代によって随分と捉え方も違ってくるようである。恋愛小説として読むなら、これといって山も谷もなく、何となく読んで終わってしまうかも知れないが、この主人公の年代に近い人ならば、それだけではない読み方もできるだろうと思う。

ぐだぐだと僕が書いても仕方がないので、著者のあとがきを引用したい。

今日、マーリエや私の世代は年金生活に入る時期にさしかかっています。社会の中で成功を収めたこの世代の多くの人たちが、自分の理想を裏切ったと感じることはままあることです。意識しての裏切りではないかもしれませんが、いずれにしても、ひとつの挫折にはちがいありません。
 (日本語版に寄せて、2011年)

1976年代半ば、若者同士で共同生活をしていた中で共有していたはずの理想的社会像、思想というものと、それが意味をなさない現在を、自分の恋とからめながら行ったり来たりする、そしてどちらもどうしたらよいのかわからない、わからないままに折り合いをつけて生きていくしかない、というのが著者の意図ではないかと思える。

ただ、思想的な面はそれほど表だって出てくるわけではなく、過去の恋人の死から、封印したはずの過去を引きずりだされた心の動揺が主たる話のテーマになっている。

だから若い人が読むと、うじうじと過去を引きずった恋愛小説のような、人生を扱った小説のような、しかし老人になる直前の中途半端に過去を引きずった女性の、これから一体どうするという決意のようなものもない、曖昧な話としか映らないかもしれない。

といって、僕にとってそうした過去の思想的な面が浮き出されているかといえば、僕はその世代から少し後になるからか、あくまで傍観者的な見方しかできない。

1950年生まれというと、日本でいえば学生運動盛んな頃でもまだ高校生であり、東大紛争の煽りを受けて東大入試が中止になった世代のはずだ。だから、いわゆる学生運動のまっただ中の世代の尻尾のあたりではないか。

スウェーデンではどうだったのかわからないが、1976年というのが小説の過去の舞台であれば、すでにそうした運動は社会からは見放されてしまっていた時代ではないかと思える点に少々疑問が残った。

偶然ながら、昨日、娘がつけっぱなしにしていったCATVのチャンネルをガチャガチャと回し、とはいわないが、適当に変えていたら、浅間山荘事件を題材とした映画をやっていた。僕がみたのは機動隊が突入する数日前からの終わりのあたりだけだったが、これが1972年のことだというから、1976年はやはりこの世代も資本主義に組み込まれてしまった後ではないかと思える。

まぁ、そんなことはあまり小説のテーマの上では重要ではないが、浅間山荘の映画で最後の場面で、リンチ殺人により同士を殺してしきた自分たちも「落とし前だけはつける」という一人のメンバーに対し、一番若いメンバーが叫ぶシーンが強烈である。

 この映画の中では、あさま山荘への警官隊の突入が目前に迫った時点で、追い詰められたメンバーが、「落とし前をつけよう」と発言する。(その意図は、最後まで戦って自決しよう、というようなことだろうか。) それに対して、一番年少のメンバー(加藤倫教?)が、とうとうブチ切れる「いまさら、どうやって落とし前をつけるんだ。落とし前なんかつけようがない。おれたちは、みんな勇気がなかったんだ。ただ勇気がなかっただけなんだ」そして号泣。誰も反論できない、というシーンがある。
 (NEGATIVE.Dから引用)

毎度のことながら、まとまりのない話になってしまったが、今の若者はこうした理想主義とか思想よりも目先の生活をなんとかしなければ、満足に生活もできない将来をかかえているといえるだろうし、そうした時代を作って今もそれを進めているのが、この小説の1950年前後に生まれた世代ではないかというのも、非常に皮肉というか、それが著者のいう若い頃の理想に対する裏切りであり、さらにはこれからの世代に対しての背信でもあるだろう。そういう自分もその世代に含まれるわけだが。

やれやれ、めっちゃ暗い話になってしまった上に、書こうと思っていたことが何だかわけわからなくなってしまった。まぁ、素人のブログですから仕方がありません。

小説の中では、Keith JarrettのKoln Concertがちょっとした役割を果たしているのと、情景描写に数年前に見たハンマースホイの絵画が引用されているのが、ちょっと嬉しかった。

そういえば、先週もKoln Concertの話をだしたっけ。

ここまで読んでくれた人、ありがとう。

この本は僕より若い人には特に勧めません。1950年前後の生まれの人で過去を思い出したい人はそのきっかけにはなるかもしれませんが、前向きに生きたいという人には軟弱で暗い話としか見えないかもしれません。

まぁ、それなりに面白かったので読んで損したとは思いませんが、一番感じたのは、1970年代の過去も21世紀の現在も、スウェーデンは日本よりもはるかに豊かな暮らしのできる社会なのだなぁ、ということでした。日本の社会って本当にあくせくとした効率の悪い、ゆとりのない社会だと思います。そして現在、政府も産業界もそれをまだまだ推し進めようとしているようにしか見えません、というのが結論かな。

でも一方で、まだしつこく続けると、世界的にみて様々な面、とくに文化的な面で考えると、スウェーデンの及ぼす影響ってほとんど見当たりませんが、日本の文化は世界中に広まっているのはちょっと不思議な感じがすると同時に、誇りに思って良いともいえます。

何だか、「第三の男」の最後の台詞を思い出しました。実はこの映画はまともに見たことはないです。

ボルジア家の圧政時代には、陰謀やテロが横行した。だが、そのなかで多くの芸術家が誕生した。
スイスは愛の国だが、500年間の民主主義と平和は何を生んだんだ?
――鳩時計が精一杯だ
 (「伝える力【話す・書く】研究所」から引用)

イタリア・ルネサンス文化が圧政下で誕生したという話は、塩野七生だったら大いに反論しそうな気はしますけどね。

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