小説「リスボンへの夜行列車」から
表題の小説で気になった文章をBlog用にメモしたのが3年半くらい前(2020.8.19)、それを投稿しようと下書きしたのが2023年の11月で、またほったらかしだったのをやっとアップします。最近では珍しく本の話題、といっても引用の羅列だけど。
リスボンへの夜行列車/パスカル・メルシェ著/浅井昌子訳(Amazonリンク)
以下、それぞれに含蓄があると思った文章をメモしたもの。ただ図書館で借りて読んだのがもう3年半以上前なので、そのときに何を思ってメモしたのか覚えていないが、単なる抜粋では著作権上の問題もありそうだから読み返してみた感想みたいなものも付け加えておこう。
この本を読んだことは2020.10に書いていた。
最近借りた本など(2020.10.12)
その時にもアップしたけど、映画になったときの予告編を再掲。
以下、小説からの抜粋と感想:
あることがらを表現するとは、そのことがらの力を保存し、そこから恐怖を取り除くことだと思う(ペソア-ポルトガルの詩人)
表現が「力を保存」というのはわかるが、「恐怖を取り除く」ということになるのか?、そういうこともあるかもしれない、考えたことのない視点だな。
ファラオが強情に意思を曲げないといって、神はエジプト人に罰を与えたんだぞ。
だけど、ファラオをそういうふうに創ったのは神自身じゃないか!それも、神の力を誇示するために、そう創ったんだ!なんといううぬぼれた、わがままな神だ!なんという威張り屋だ!
神道や仏教に馴染んでいる日本人からみると「それはそうだよねぇ」と納得できる気がするが、ヨーロッパ的思考の中ではこういう発想は少数派なんだろうな、しらんけど。
残された人生の時間がわずかになると、規則などはもう通用しなくなります。そうなると人は、まるで理性を失って、精神科病院に放り込まれてもおかしくないかに見える。でも、根本ではまったく逆なんです。精神科病院に入るべきなのは、時間がわずかになっていくことを認めたがらない人たちです。まるでなんでもないと言うように、それまでどおりに生きようとする人たち。
そうなのか?、僕は今のところ「なんでもないと言うように」生きているような気がするが。それまでどおりというのがどの時期を指すかわからんけど、定年後やコロナで退職後はそれまでどおりではないかな。でも少なくとも「理性を失って」とはなってないと・・・、しらんけど(^_^;)。
Facebookで横尾忠則氏をフォローしてるんだけど、以前から死についてユニークな視点での投稿をされている。最近、「死後を生きる生き方」という本も出された。横尾氏のサイトからだとサイン入りが買えるらしい。買ってないけど。
僕も同じような人生の時間帯になってきたけどあんまり考えてないな。横尾氏のご意見もコピペしておこう。
まあ、人間は全て死にます(生物も)。だから死ぬことを知っている人が読んでくれているんですよね。死は特別のものでも、なんでもなく、生きていることと同じです。(横尾忠則)
年と共に怠け者になっていきます。この方が健康です。怠けることは自由への入口です。(横尾忠則)
横尾氏の視点からだと、「理性を失って」とは正反対な生き方だろうねぇ。
また「リスボン・・・」に戻って:
マリア・ジョアンはわたしを見つめ、微笑んでくれた。
自覚的に生きる人生という広大な草原から来る微笑みだった。
「広大な草原から来る微笑み」という表現が美しいね。
瞬間を生きる-あまりに美しい響きだ。
だがそうしたいと願えば願うほど、それがどういうことなのか、わからなくなる。
なんとも哲学的?な。
時間が静止している。いや違う、静止してはいない。だが、時間は、その流れにグレゴリウスを巻き込まず、グレゴリウスを未来へと連れてはいかない。ただ無関心に、無関係に、傍らを通り過ぎていくだけだ。(グレゴリウスは小説の主人公)
そうだよな~、結局はダラダラと時間が過ぎていく毎日、って違うか(^_^;)。
つまり私は、一カ月という時間で人は自分のためになにができるだろう、と尋ねるべきだったのだ。このひと月は完全に自分のものだったという印象を持つのは、どんなときなのだろう、と。
上の文と同じく、だなぁ。
引用は以上だけど、こうした細々と綴られた哲学的(たぶん)な思索が映画で表現できたのかと疑問が残るわけで。
書き改めたのが11月初旬でまだまだ暑かったから、"Summertime by イタリアのVib奏者Giovanniさん"を埋め込んだけど、今はもう2月だ、やれやれ。
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